2017年6月28日水曜日

オタクの表現様式と、「オタク左翼」の不可能性 (1/2)

初期のオタク文化の時代は、まだ世の中に、一般人も社会問題に関心を持つべきだという左翼的な(保守主義者達は、人がその分限、職務を超えて政治的であることを好まないという点で)考えが世間に残っていたので、オタクとしても、そういう態度をとる傾向にあったのである。なまじオタク文化をいつかは世間に認められるものにしたいという野心のあるオタクほど、その必要を感じていた。「ゴジラのテーマは反核」「ガンダムは反戦」などという解釈、主張は、そういう空気を背景としたものであった。しかしこれは今日からみるとやはり滑稽に見える。これらの作品の一番力が入っていて、見どころとなる部分が、取ってつけたような政治的言及には無いことは明白だった。この問題は、作家がどういう意図でそれを作ったかということではなく、実際の作品がどうなっているかという話である。別の言い方をすれば、作家が言葉の上だけで考えたことではなく、芸術家としての技巧全体を通じて考えたことは何かということである。

優れた政治的、社会的メッセージというものは、ある種の「当事者性」が重要なのである。問題を一般論として、単なる知識として、消費させてはならない。聞き手に、これが現実の問題であることを思い知らせ、当事者としての決断を迫るような生々しさが無ければならない。受け手を挑発して、問題の中に引きずり込む力が無ければならない。

その点で、政治的メッセージに寓意的表現は本来あまり適さない。名指しで議論をすると、弾圧を受けるというような場合はやむを得ないが…。一方、特撮やアニメーションのような「オタク系」表現にも、いろいろな可能性があるとはいえ、その豊かな鉱脈は、やはり寓意やファンタジーにあった。アニメがオタクの芸術部門として選ばれ、オタク・ムーブメントの中心的地位を占めるようになった理由の一つは、その寓意とファンタジーによって、あらゆる問題を括弧に入れて 、当事者性を薄め、意匠化、「ネタ」化してしまう能力の高さだろう。オタクはアニメや漫画の表現力のこういった面を発展させることに注力してきた。

実際、「意匠」としてなら、ゴジラやガンダムの登場人物が核兵器や戦争に否定的な言及をすることも、一定の意味はあったのである。たとえばそれは悲壮感やスケールの大きさを演出し、作品の本来の主題である、怪獣による破壊のイメージや、モビルスーツによる戦闘のかっこよさを引き立てる効果を生む。あるいは、多少の衒学趣味を満たす味付けとすることもあるかも知れない。一方、字面どおりに政治的意味を読み取ることはこの場合誤読と言える。これは、「オタク的」な作品の読解全般に言える傾向だ。

なお、オタクが空想と現実、二次元と三次元、という対立軸を設定し自分達を前者の側に置くとき、現実的であるとか三次元的であるという事は、まさにこの「当事者性」のことを指して言っているのであり、単に写実的とか緻密であるとか正確であるという意味ではないことには注意を要する。緻密であるという意味でのリアリズムは、オタクも必ずしも否定していないどころか、時には自分達をこの意味でのリアリストだと自認している。一方で当事者性の否認は、オタク文化のアイデンティティに関わる問題なのだ。

ともあれ、後続のオタクから見れば、初期のオタクたちが未だ「拘泥」していた社会的メッセージ性というものは、オタクの影響力がまだ弱かった時代の、大人がアニメ等を見ることに対する弁解や方便(それは世間に対するものであると同時に、自分自身を欺くためのものでもあった)にすぎず、オタク以前の時代の名残りであり、オタク表現にとって本質的でない、足枷となるものであった。そして、それを切り捨て、表現様式、表現技術上の自由を広げる方向でオタク文化の主流は展開していくことになったのである。これは、芸術の本質が言葉で説明された部分ではなく、美的様式の中にこそあるという観点では、正しいものであった。

一方今日でも、オタク文化の右翼性を否定する意見は、しばしばかの古き「ガンダム反戦説」のような芸術観に依拠している。つまり、オタクの表現様式というものを、どんな政治思想でも自由に入れることのできる中立的な入れ物とみなし、それゆえにオタクと右翼思想は本来的には無関係だというのである。だがこのような主張は、いささか表層的な見方であり、かえって「オタク左派」の弱点となるものではないか。

例によって、古典的な左翼は真面目なので、芸術作品の解釈においても、よく練られていない国語のテストの設問のように、散文的に説明できる「作品の主張」を性急に求めるきらいがあった。そのため、全体の美的構造とは一致していないが、知的には把握しやすい政治的、思想的言及を主題と錯覚しがちである。反左翼芸術運動としてのオタク・ムーブメントは、遊戯的、審美主義的鑑賞の能力に優れる文化的エリートの立場から、このような左派の弱点を攻撃し、嘲笑うものでもあったのである。



オタクとネット右翼が関係ないという主張の例証として、ネットでしばしば宮崎駿の名が挙げられているのを見るのだが、宮崎駿がオタク界にどのように受容されたかということも、慎重に考えなければいけないだろう。

宮崎の芸術家としての部分が、後のオタクに多大な影響を与えたのとは対象的に、彼の左翼的、反戦的言動の部分は、オタク界ではだいたい嘲りを受けてきた。「作家としての宮崎駿の本質はしょせん軍事オタクのロリコンではないか、何をもって平和やリベラルな価値観を語るのか」という訳である。

むろん宮崎自身はポーズで「左翼」やってたような類の昔のオタクとは訳が違うが、宮崎のフェティッシュな美術的才能と比較してしまえば、彼の政治的主張の方はやや普通、平凡であるという話になってしまうし、作品の上で重要な役割を果しているとはやはり言えない。

宮崎がその晩節において、またオタクの右翼性が明確な形で表われてきたこの時代において、「風立ちぬ」のような作品を出してきたことは、オタクの限界を象徴する事だった。この作品は、結論だけ言えば、現実の戦争さえもオタクにとっては(この場合航空機、兵器に対する)フェティシズム探求の機会にすぎないという、オタクの理想をロマンチックに美化して歌い上げるものとなった。

「我々の夢の王国だ」「地獄かと思いました」…映画の最後になって何か自責的なことを言っているのだが、これは「地獄変」の良秀が最後は首をくくって死ぬというのと同じ構造で、一方では、平均的な読者を道義的に安心させるための付け足しだが、一方では、地獄行きも辞さないほどの美的探求の「悪魔的魅力」を誇示する副次的効果を持つ。こういう部分から「戦時下での純真な技術者の苦悩」がテーマであると読んでしまうのも、また「左翼的誤読」の一つだろう。

一般的に、エピローグ的な部分というのは、作品全体の美的構造に大きな変更を加えることなく付け替えることのできるものであり、そのため、本編とあまり関係ない政治的、道義的弁解を盛りつけるには便利な箇所なのである。そしてそれを「最後に言ってることが、つまり全体の結論だろう」と読んでしまうのも、よくあるパターンではある。

結局、後続のオタク達が、宮崎駿の美術的部分のみを継承し、その政治的、社会的メッセージを拒絶したのは、彼等が作家を十分に理解しなかったからではなく、ある面で作家本人以上に、その作品の本質がどこにあるのかを明け透けに認めた結果だとも言えるのであった。

[続く]

2015年3月12日木曜日

理工系の保守主義について

「数学のできない人間は、完全には人間ではない。」
──ロバート・A・ハインライン

自然科学を重視することを「左派的属性」だとする考え方があり、当の左派のみならず、ある種の保守派からも(進歩主義批判のような否定的な意味で)言われることがある。しかし、これは俗説だろう。

「知は力なり」とは、フランシス・ベーコンの思想とされるが、ベーコンはまさにこの意味において自然科学を重視し、伝統的な学問の実効性の乏しさを批判したのだった。一方、政治家としてのベーコンは、政治倫理のもつ実効性を疑い、しばしば権謀術数を肯定する面を持っていた。 自然科学それ自体には、政治的価値判断は含まれないとしても、生身の人間が、科学を自分の専門として選択するということは、近代科学の始まりの時から、すでにある種の政治的選択と関係していた。それは、オタク文化が、ときおり美化されるような、子供のように純粋な趣味や美の追求などではなく、ある種の反動と復讐でもあったことに似る。

科学技術の知識は、軍事関係の知識と並んで「知は力なり」を最も具体的、即物的に実現するものと見なし得る。それゆえにこの両ジャンルは、専門知識を自慢とするオタクの文化が、ロマン主義的な力への憧れと結び着く部分となり、オタクの間で特に重視されるのだ。

このような知的マッチョイズムは、ある面でやや幼稚に見えるし、オタク自身も人に言われる前に先手を打って、防御的に、自嘲しながら活動している。しかしまた、ここにはオタクの実も蓋もない本音がある。そしてネット、オタク界は、その本音をもっともらしく取り繕う理論の蓄積には事欠かない。

自然科学と比べれば、文化系の学問の実効性や真実性にあいまいな所があるのは確かである。そのため、いささか偏狭な、オタク的理工系の秀才から見ると、文化系の学問などはしばしばフィクション同然に見える。彼らの見方では、科学の守備範囲から一歩出ると、そこから先は何も証明できない混沌になっているのである。

もちろん実際には文化系の学問にも実効性を高め、真理に近づくために蓄積されてきた様々なルールがある。自然科学の外側もいきなり無秩序の絶壁になっているのではく、確実さについていろいろな段階があって、全体として人間の知的文化が成り立っているというのが、適切な見方であるのだが。

ともあれ、自然科学の外に重要な真理はないとすれば、歴史や思想や芸術などは、官能と知的遊戯性にいかに奉仕するか、つまりネタとしてしか評価されないことになる。こういう点は、オタク文化の特徴の一つであり、オタク文化の持つ、理工系秀才たちの余技的な芸術運動としての側面である。オタクが大衆化した現在でもそれは継承されているのだ。


自然科学から導かれる、没価値的、没倫理的な事実を種にして、通常の人間社会の道徳や常識が全く相対化された特異な世界を描き出すエンターテインメントの手法は、サイエンス・フィクションと呼ばれる。

SFはオタク系フィクションでもよく用いられる要素で、SFファンは今日のオタクの源流の一つでもあるが、こういうSF的センスともいうべき形で、オタク界隈では科学的合理主義と、人文、社会科学的な価値や倫理への冷笑主義が同居する。 そこにある種の理工系の保守主義というものが成立する。


「技術立国」という高度成長後の日本の自己規定、成功の物語は、保守派からも好まれるものであったが、それは単純なナショナリズムのみを理由とする訳ではないだろう。

すなわち、戦後の日本の大衆が真に求めてきたものは、民主主義や国民主権などの絵に書いた餅ではなく、もっと具体的な豊かさであり、この豊かさをもたらしたのは、「進歩的文化人」ではなく、科学技術と、これを担う科学者、技術者ではないか。保守派が技術立国日本を称揚するときには、このような戦後日本の発展に対する評価が、暗に付随してきた。そして当の科学者、技術者層もまた、しばしばそのようなビジョンに基づいて、自分たちの仕事に誇りを見出したのであった。

この理工系の保守主義に見られる、戦後の民主主義的改革や政治運動に対する低い評価にも関わらず、それが世の中を豊かにしようと真に考え、多くの貢献をしてきたことは事実である。その点で、これを新自由主義的傾向の強いオタク=ネット右翼運動と同列に論じることは、公平ではないだろう。

それでもやはり、オタク文化は戦後日本の理工系保守主義の考え方を前提として成り立っている。両者の違いは、やはり今日のオタク文化が拠って立つテクノロジー、ネットの技術が、大衆を物質的に豊かにするというような性格を持っていないことに由来するのだろう。結果として、テクノクラシー的なエリート志向が、前面に出ている。オタク=ネット右翼運動は、現代日本のIT業界の技術者層の地位と利益とプライドを代弁してきた。

技術者による効率的支配を目指すという20世紀のテクノクラシー運動は、米国では、民主的意思決定の元での行政の効率化など、その影響は穏当な範囲に留まったが、ドイツではナチズムに接近していった。政治面で遅れた国において、ときに技術者は、科学技術の発展により、西欧式の民主主義や人権思想を必要としない「もうひとつの近代」を実現できるという理想の担い手となる。オタク・ムーブメントはネット技術と結びつくことで、現代日本において、この理想を実現しようとするのだ。

科学的合理性をもって近代社会の性質を代表させ、一方で倫理的規範を、権威主義的であり、反近代的、反民主主義的なものと見なす考え方がある。科学技術がもたらす物理的な恩恵は、素人にも解りやすいものであり、その意味では科学技術は大衆的であると言えなくもない。

しかし、民主主義の必要性は、政治が倫理的なものであり、社会正義の実現を目的とするものだという立場からこそ生じる。倫理こそが、大衆的なものである。それは、一つには、倫理や道徳では「専門家」を育成する確固とした方法などあった試しがないという理由がある。しかしより本質的なのは、道義的判断は、自分の意思で行うのでなければ、そもそも道義的と言えないということだろう。世の中には、その道に優れているか劣っているかに関係なく、自分でやらなければ意味のない事があるのだ。逆に、もし政治が利害の調整や、衣食住の合理化、効率化のためのものに過ぎないとすれば、結局、全ての判断を専門家、プロに委ねるのが上策だという話になる。そしてそのような社会において、自分達が高く評価されることこそ、オタクとオタクの文化が孕んできた期待であったのだ。

近年、福島第一原発の事故が日本にもたらした影響は深刻で多岐にわたるが、思想的な面では、事故とその後の一連の対応の中で、我が国の原子力技術を担うエリート達の、甚しい道義的退廃が露呈したことがあった。彼らはいわゆる「御用学者」と呼ばれ、批判されることになった。
しかし、オタク界は、この論争を道義的問題とは捉えず、科学知識の多寡の問題、技術エリートのアイデンティティの問題に直ちにすりかえたのであった。原発事故後、「反・反原発」が速やかにオタク文化を構成するミームの一部となったことは、オタクの性質を知っている者にとっては、何ら驚くに値しない。しかし、今日の日本の科学界の退廃や不祥事は、結果として、真っ当な科学者や技術者が自分の仕事に打ちこめる環境自体も破壊するだろう。オタク界隈では、(しばしば自らが属する)日本のIT業界の技術者の待遇の悪さが話題になることも多い。そして少なからぬオタクがその原因を、科学技術を侮蔑する大衆が、理工系の人間が本来得るべき権益を不当に掠め取っていることに求める。かくして、日本の労働者は分断されていくのだが、技術者の不遇の本当の原因は、オタクが先導してきた政治への侮蔑にこそあるのではないか。

しばしば保守主義者達は、科学技術を近代社会の本質とする見方を自ら煽っておいて、一方で私達が倫理的な価値、人間の目的となるものを求めるのであれば、それは前近代に、歴史ロマンの中にしかないのだと恫喝してくる。この種の脅しに対抗するためにも、人間の社会に一層高い水準の自由と公正を求めようとした、近代の倫理的、規範的性格を改めて強調することに意味がある。

2014年4月25日金曜日

オタク=ネット右翼運動が継承する国学の精神(2)

今の日本で政治的発言をしていて、一度も中国人、朝鮮人「認定」されたことが無いとすれば、それは彼が政治の不正に抗議したことも、困窮するものに同情を示したこともない、ネット右翼かその追随者であることを意味するのであるから、逆に今日朝鮮人認定されることは、全く名誉なことであると言わなければならない。

しかし、近年までオタクやネットの世界にあまり関心を持って来なかった者は、そもそもなぜそういうことになっているのか、異様でありまた唐突で訳が分からず、しばしば、そこに無知や狂信を見出し、あるいはごく一部の者の自演や扇動と見なして無理に納得しようとする。

実際には「朝鮮人認定」の背景には、国学以来のそれなりに整備された世界観が存在しており、それゆえにネット右翼思想は、教養あるはずの者たちにも、強く広い希求力を持ってきたと言えるのだ。今日ではネット右翼は全く大衆化しているが、それも、まず知的青年の間でネット右翼思想が勝利を収めた結果である。


思うに、国学が徳川幕府のイデオロギーたる朱子学を批判した民間の学問であるというだけで、そこにリベラルなものを見てしまう傾向には、80年代以降の日本社会が、オタク、ネット文化の右翼性を批判しきれず、後手にまわりつづけた事とパラレルなものがある。

実際には江戸時代の民間思想史は、儒教の体制擁護的な部分ではなく、孟子から朱子へと至る、儒教の理性的、理想主義的側面をこそ専ら攻撃し、またこれを相対化する過程であった。全ての人間に天理が備わる──それはつまり、善悪の判断は、誰もが個人の資格で、いかなる権威にもよらずにそれを行い得るし、しなければならないという帰結を孕む──という理念を、理性の傲慢と見なして脱構築する過程の中から、我が国の国粋主義は生まれてくる。国学はその到達点である。

こうしてまことに困難なことに、国学的素養(それはさまざまな形で現代の私達の意識の中にも入り込んでいるのであるが)から見ると、西洋近代の民主主義や人権思想なども、日本人が江戸時代にとっくに超克した「からごころ」──儒教に代表される中国的、朝鮮的精神の焼き直しに見えるのである。日本の右翼思想はその始まりからポスト・モダンであった。


国学の「からごころ」批判の理論では、中国人、朝鮮人というものが、単に民族やナショナリティを表す言葉ではなく、意識的で明示的な規範に基づいて人や社会を変えていこうとする(国学の立場から言えば、傲慢で偽善的な)傾向全般を指す、一つの抽象的概念、思想的述語に拡張される。

これは無論、現実の中国や韓国/朝鮮の事情とはまた異なる、二重の意味で勝手な理屈だが、こと日本側の視点に限れば、我が国における近代以前の普遍主義的思考は全て中国朝鮮経由で伝わったものだという事情がある。

結局のところ、儒教から正義を、仏教から慈悲を学ぶまで、日本人はそういう概念の存在を自覚することは無かったのであって、それらはけっしてその辺から勝手に生じてきたのではない。我国の普遍的正義の伝統は、外来思想を理解し、吸収しようとしてきた変革の工夫と努力の中にしか見いだせない。それは、後発の文明地域にはありきたりの話で、日本に特殊な運命でもなんでもないのだが。

ともあれ、それゆえに、日本の国家主義にとって、正義と慈悲は外国製の欺瞞であり、潜在的に「反日」なのである。生来自然に正直な日本人には堅苦しいメインカルチャー(それはつまり、人間とその社会がいかにあるべきか、という問いに正面から回答しようとする文化である)など要らない。サブカルチャーだけで十分である。つきつめてしまえば、それが日本の草の根右翼思想がずっと主張してきた事なのであった。その系譜を受けつぐ形で、オタクは現代日本の右傾化において重要な位置を占めることになったのだ。


このような日本の保守/右翼思想の伝統を考えれば、現代の日本で保守自由主義のようなものをネット右翼の対抗として期待することは、かえって日本の実情に反する無いものねだりだと言わざるを得ない。日本における自由と公正は、左翼の意識的な変革のイニシアチブと、それに対する右派の譲歩という形でしか実現しえない。意識的な変革にともなう葛藤、居心地の悪さ、ぎこちなさ、不自然さ、うっとうしさ、乱暴さ、ある種の「醜さ」に耐えながらしか、達成されない。

「美しい国」とはいかにも稚拙なスローガンだが、日本の保守思想の宿命を端的に表す言葉ではあるのだ。日本の良心的保守と言われる人々は、ネット右翼を批判するにあたり、しばしば「差別は醜い、かっこわるい」のような、審美的論点しか出せない。しかし、どちらが美しいかというレベルの争いでは、私達はすでにオタク=ネット右翼の前に敗北したのではないか。

俗に「二次元」「アニメ絵」などと呼ばれるオタクアートは、かつては一般人から気持ち悪いとよく言われた。しかしこれは美の欠如を意味するのではない。真や善との交渉を断ったところで、ひたすら内向きに、官能への奉仕のために洗練を極めて行くオタクの美のあり方に、慣れない者達は強い抵抗を感じたのである。それは、「美しかない国」たることに居直る日本の国家主義の不気味さと軌を一にする。


日本の中国人、朝鮮人差別の構造は、やはり生物学的な人種差別思想よりは、欧州のユダヤ人差別と比較して理解されるべきものである。欧州のロマン主義も、「ヘブライズム」の普遍主義的(根無し草的)性格を批判しつつ、これを現実のユダヤ人排撃と巧みに混交させることで、ユダヤ人差別を知識階級が真面目に取り組むに足る思想、芸術へと「高めて」いったのであった。

戦後の日本においても、敗戦と占領の現実から目を背けるために、善悪の判断を保留し、もっぱら功利的観点から政治を評価しようとしがちだった日本社会に対して、政治の正しさの観点から問題提起する役目を負ったのはしばしば中国、韓国であった。しかしオタク世代にはそれが正しい正しくない以前に、ひどく遅れたものに見えるのである。中国人、朝鮮人蔑視と、普遍主義、理想主義への憎悪は、現代のオタク、ネット文化においても高度に融合している。ネット右翼の韓国/朝鮮人認定を「国籍透視能力」などといって笑うが、向こうも実際の国籍など必ずしも気にしてはいない。現代日本の政治的言語において、権利を声高に叫び、政治へと「逃避」する人間は、国学の伝統を継承するかたちで、象徴的また内面的な意味で朝鮮人と呼ばれるのである。

このような意味で、韓国/朝鮮人差別は、単なる偏見や憎悪にとどまらず、オタク・ネット世代の日本人にとっての、世界を認識する基本的方法であり、総合的な人生観であり、知的人間としてのアイデンティティであり、誇りとなるのである。このような世界観、拡張された「朝鮮人」概念が暗黙の内に共有されているがゆえに、現代日本の議論において、朝鮮人認定が強い力を持つ。それは暗黙の了解ゆえに、多くは右翼思想としての自覚すら伴わない。

そしてその中で、オタク文化は、アニメ、ゲームなどの特に虚構性の高い表現に遊ぶことを通じて、政治=社会正義によって自らを底上げしようとする醜いからごころ、我々の中の「内なる朝鮮人」を排撃する芸術運動として、自らの意義を再確認することになった。今日オタク作品を無批判に楽しむとき、人は意識的にせよ無意識的にせよ、このような芸術観に承認を与えることになるのだ。

現代日本において道義的理性の復権を企図するときに、オタク文化との対決が避けて通れない理由が、そこにあるのだ。