2012年12月13日木曜日

形而上学、および詩人追放論(2)


かくして、プラトンの「国家」は、(道義的)理性によって社会を意識的に変革していこうという、広い意味での左翼的プログラムの、西洋における始まりを告げる。

現代の日本では、左翼的な理想主義は、「近代人の浅知恵の産物」とレッテルを貼られ、歴史的スケールにおいても矮小化されている。近代的、左翼的なるものが、むしろ人類の歴史の中で無視することのできない古く大きい一つの潮流の、最新の展開であるという視点を持つことは、これに抵抗する上でひとつの意味がある。

しかしそうすると、「国家」で述べられている理想国は現代人から見れば、エリート独裁国家で、詩人が追放の憂き目にあう表現規制国家ではないのか、(この国家にはオタクにも居場所はないように思える)これこそ、理想主義者の残虐性を象徴する話ではないか、オタク=ネット右翼ならば、ただちにそう言うはずである。

プラトン自身も言うように、この理想国はただちに実現を企図するような性格のものではないのであり、理想国から詩人が追放されるとは、理想的状態においては、人間の社会は詩を必要としなくなるだろう、というような意味に解されるのであるが、この種の理念的思考というものは、日本では例によってあまり理解されていない。

我々の世代は常に、直接的、あるいは間接的な形で、高遠で空想的な理想を引き下げれば、現実がこれに追い付けるようになり、世の中に実際上の利益をもたらすと言い聞かされてきた。あるいは、理念というものを捨て去ることで、我々は他人に対して寛容になることができ、自由な社会が実現すると繰り返し言われてきた。さらに、博愛や平和主義のような、空虚な口先だけの道徳への逃避を止めることで、身近な人間に、ごまかしのきかない具体的な愛情を注ぐことができるようになるとも教えられてきた。これらは実際、私達の世代、私達の時代を代表する人々が、全力で追求してきた精神であり、オタク文化はこういった精神に美術的、情緒的な表現を付与し、この精神を大衆化する役割を果してきたのである。

だが事実はどうなのか。この十数年の日本では、理想を引き下げた結果、我々の現実は理想に追いつくどころか、目線が下った分だけいよいよ低級になっていったのではないか。理想は私達に方向性を示し、現実を評価する基準を与えるものである。すぐ近くにあるもの、こちらが少し移動しただけで見える向きが変わってしまうものでは、方位を知ることはできない。容易に実現できないくらいでなれば、理想は理想としての用をなさないのだ。また、私達は理念や思想を捨てることで、いよいよ他人に対して酷薄になり、タテマエすらない、むきだしの欲望を押しつけるようになっていったのではないか。他者に寛容であれということ自体が、普遍的倫理の命じる所でしかありえないのだから。そして、博愛を否定されたとき、我々は家族すら愛せなくなったのではないか。我々の「身近な人間」はそれこそ、確率の問題からいっても、ほとんどが我々自身と同様の、ごく平凡な、欠点の多い人間なのだ。能力や徳に関係なく、全ての人間に尊厳があるという感覚を、なんらかの形で持っていなければ、どこに彼等に誠実に接しなればならない理由があるだろう。

実に、このようにして、我々の世代は全てを失ったのである。


プラトンは別の所では、芸術が、美のイデアを追求する手段となる可能性を述べたりしているのだから、結局のところ、理想国家からの詩の放逐ということも、創作には、「真の芸術」と、そうでないものがあるという、かの古典的な議論のルーツなのである。この種の、芸術が虚偽を手段としつつも、真なるものを表現しなければならないという考えは、オタク文化が一貫して拒絶してきたものであった。オタク文化は普遍的美の基準を認めず、コミュニティが共有するネタの相互参照と差異化のゲームとしてのみ表現される文化である。

ソフィスト達がそうだったように、ニヒリストは理想主義者よりも常に、また本質的に雄弁である。普遍的真理が一つしかないタテマエであるのに対して、虚偽や方便や特殊なものは無限にあってバラエティに富んでいるのだから。フィクション、ファンタジーの中に、我々はしばしば普遍的理想を否定する契機を見いだしてきた。ロマン主義者が中世的伝説において、我が国の国学者が記紀神話や王朝文学において、そうしたように。戦後日本の重要な保守思想家の多くが文学出身であったように。

政治においては、人々を説得し、勇気付け、動かすための「雄弁」、「面白さ」が必要だとは、右翼という訳でない者でも、しばしば主張することろである。しかし、今われわれが直面しているのは、この30年近くにわたってひたすら「面白さ」を極限まで追求してきたオタク文化が、その最終的な帰結として、たとえば、中国人、朝鮮人、底辺叩きほど面白いネタはない、この面白さから逃避し、皆が盛り上がっているのに水を指す奴は偽善者だ、という類の思想に到達したという現実なのである。「面白さ」を主にして勝負するかぎり、それこそ左翼が右翼に勝てる要素など無いのだ。そこに、我々の抱えている問題があり、また、プラトンが彼の時代において、あえてある種のフィクションを排斥するような見解を述べた理由を、我々が現代の問題に引き付けて理解する鍵がある。

プラトンは美が、究極的な地点で真や善と一致すると考えたのであるが、それはもちろん、フィクションの中に悪行を描けば、その作品自体が悪になるというような、単純な話を意味しない。このような機械的な判断は不可能であるからこそ、私達の社会は、芸術は法的、行政的規制にはなじまないものと認識しているし、それは正しい。しかしこういったことは、フィクションが真や善といずれかの地点で一致する可能性を、また理想的なのもとそうでないものを識別しようという試み自体を、否定するものではないはずである。

今の日本には、オタク=ネット右翼ムーヴメントに代わるような、新しい文化的な動きは影すら見あたらない。しかしいつかオタク文化が乗り越えられる時が来たとするなら、そこでは結局、芸術が普遍的真実を表現するものだという、古い価値観が新しい形を得ることになるほか無いのではないだろうか。