スブやんのように直線的にエロスの申し子になることは、私自身いさぎよしとしない。なぜなら、それをのぞむ以前に私はプロレタリアートの子だからである。
—— 斎藤龍鳳「ボクの『エロ事師たち』論=私はなぜ一夫一妻に立ちもどったか」
本居宣長の源氏物語論には共感出来るけど、直日霊とかの国粋主義になるとちょっと、というのは、かつてはよくある感想であったが、両者はやはり一直線に通じたものであると考える。
「もののあはれ」を、我や理念を立てず、ひたすら目の前の対象に寄り添い、これと一体となり、これを味わい尽くす態度とするならば、古事記伝は、この「もののあわれ」を古事記のテキストに対して徹底的に適用する試み——それは手法の上では、近代の実証的、文献学的手法に似ていなくもない——であり、その過程において、儒教の説く道徳的、条件的忠誠に対して、無条件的な尊王こそが、究極の「もののあはれ」であるというビジョンが導かれていく。
すなわち、天皇が善を行う時は、共に善を行い、その喜びを共に味わい尽くし、天皇が悪を行うときは、共に悪を行い、その苦しみ、悲しみをも共に味わい尽くすのである。こういう善悪を超越した、官能的な、エロティックな国体との合一こそが、人間が到達し得る最高の、また最も純粋な境地として示される。それはいわば政治の源氏物語化であり、国家のポルノグラフィ化である。かくして、古事記伝以降の日本では、ポルノグラフィはしばしば右翼の担当領域なのである。
しかし、「もののあはれ」は、美化された皇朝国家に対してだけではなく、弱い者、貧しい者にも向けうるものではないか? 宣長は、秘本玉くしげ等では、困窮する農民等に同情的な見解を述べる。しかし、こういう具体的政策提言の部分は、熊澤蕃山以来の、江戸時代の理性的儒教知識人の経世論を踏襲しつつ、和文でやわらかく表現し直したものでしかないとも言える。紀州藩主に提出した現実の政治問題の議論ゆえにか、国学思想の積極的、独自的展開はここでは慎重におさえられているのである。
むしろ理論的展開としては、「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは」という徒然草の美意識を、上辺をつくろう偽善的態度として批判した宣長は、富貴に憧れるのが人間のまごころなのに、ことさらに貧しく卑しい者に感情移入するのは、自分を慈悲深く見せようとする歪曲した精神であるとも、状況によっては言えたはずである。
実に、「あはれ」と「慈悲」は別のものであり、後者は心情ではなく、一種の規範としての性格をもつ。人間にはあはれ(文学的感動)が必要だが、慈悲は要らない。そういう思考を、国学は内包する。
私達は国学の文学的ルーツに柔和さとか優しさを読み取ってしまいがちである。近代以降の日本で、権力と結びついた国学、神道思想が示した残虐性を私達は知っているが、これについて、平田篤胤以降の、国学の政治「運動」化に、その責任を負わせようとする議論は多いのである。
しかし近代国学のファナティックな性質は、平田以前の、富裕な町人層の文芸趣味に基づく、机上の知的冒険としての国学にこそ強く由来するのではないか。
江戸時代の過大評価は、近年の日本の右傾化が生み出した傾向の一つであるが、とくに町人文学の、メッセージ性を持たずひたすら花鳥風月女色を愛でる、遊興的、審美的性格は、オタクが自らのルーツの一つとしてしばしば称揚する。
だが、町人文化の繁栄は、武士階級に政治的矛盾を、農民に経済的矛盾を押し付けることで成り立っているという面を、私達は軽視する訳にはいかない。しかもそれは町人が自ら勝ち取ったというよりは、江戸時代の制度のなかにたまたま生じた旨みのあるポジションに過ぎない。それゆえに、彼らは、自分達の力に見合った政治的権利を得ようなどとは夢にも思わず、むしろ政治のような無粋なものを「免除」されているがゆえに、自分達こそがある種の文化的エリートであると考えたのであった。国学思想はそういった富裕な町人層のイデオロギーとしての性格をもつ。
町人文化はしばしば当局から規制を受けたが、こうしたことは町人文化が反体制的性格を持っていたことを何ら意味しない。彼らは平身低頭して規制をやり過ごすことを常とした。そして江戸時代の体制、身分制度が崩壊する時には、町人文化は自由になるのではなく、かえってその基盤を失い、いったん役目を終えることになったのである。このことは保守勢力からしばしば表現規制の圧力を加えられながらも、基本的にはこれを支持するオタクの立場を理解する上で示唆的である。
そもそも国学ムーブメントが自分達の拠り所のひとつとした平安期の和歌復興運動、仮名文学運動もまた、権力エリートの地位から疎外され、そのおこぼれにあずかるばかりの中級以下の文化エリート、テクノクラート貴族の「逆襲」ではなかったか。彼らはまさに文芸が政治よりも高級で人間的であるという思想によって反撃した。この思想は後世、公家社会を征服するに至る。よい貴族の条件は、よい政治を行う事ではなく、よい文化人である事になったのである。これは京都の政治的影響力低下の原因か、あるいは結果か、難しい所ではある、あるいは両方か。ともあれ中流貴族たちは一矢報いたことになるが、このことは京都の政治をいっそう無責任にしただろう。文化エリートたちはしばしば権力エリート以上に残酷である。
またこの国学の文芸的「柔和さ」という問題を逆の方向から見ると、記紀神話を全て文字通りに事実として受け止める国学の態度には、私達はある種の「過剰な真面目さ」を読みとってしまう場合がある。だがこういう原理主義は、古人の言葉をケースに入れて飾り愛玩する趣味的な態度が、背景に潜んでいるからこそ可能となる。一方古い思想を現代人が真剣に学び実践する価値のあるものとして、これと真面目に対峙する時には、私達はかえって新しい解釈を加えていく必要に迫られるのである。
オタク世代の人間は、社会正義はフィクションの中にしか存在しない、幼稚な空想であり、冷静に必要悪を受け入れることが知的で現実的なことであると常に聞かされて育った。マンガやアニメから、子供じみた勧善懲悪の要素を排除し、大人の鑑賞に耐えるものに変えた、というのがオタク界が自らの功績としてしばしば語るところであった。
だが悪や狂気や冷酷を衒い、弄ぶことほどロマンチックで、「あはれ」なことはない。それは文学の中でのみ許される。いっぽう現実の生活は、私達が互いに協力しあわないと生きていけないこと、そのために信頼と慈悲と公正なルールが求められていることを、否応もなく思い出させるだろう。正義はある面で、退屈なまでに現実的な物である。社会正義は決して、単なる生活のための方便ではないが、その存在を私達が自覚するのは、おもに現実においてであり、フィクションの中ではない。
平田派国学運動は、富裕な農民層への普及を進めていくなかで、限界はあったが、人民の救済、「世直し」という方向性を帯びていかざるを得なかったのである。農村社会は、都会の文人達よりも切実に、政治の公正さを求めていたと見るべきである。しかし口やかましい平田派は明治政府の文教政策から放逐され、体制順応的で文芸的な国学は生き続ける。
柳田国男の日本民俗学がしばしば国学の継承者のように言われるが、その、日本人もまた、ある種の「よい社会」についての観念を持ち、これに近づこうという意識的な工夫を重ねてきたという民衆観、またその基盤の上に日本なりの民主主義を確立しうると考えたことは、その真偽はともかく、近世の国学からは遠いもののように思われる。しかしそれも、柳田が、文学者であるよりは、むしろ農政家、社会改良家であったという点に結局は帰着するのではないか。
一方、近世の文芸的な国学のセンスは、現代ではオタク=ネット右翼の中にこそ、強く受け継がれているのである。オタクが自分達こそが日本の審美的、官能的芸術の継承者であると自讃するのは、実際、最悪の意味においても正しい。オタク=ネット右翼ムーブメントは私達の時代の精神を代表すると同時に、日本の文化エリートの知的伝統の現代的表現である。
今一度、「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは」という宣長により一蹴された徒然草の美意識に立ちかえってみると、私達が萎める花、欠けたる月のごとき不完全なものに時に共感してしまうのは、結局、私達自信もまた、そのような不完全な存在でしかありえないという現実での経験に由来することである。そういう意味では、それは人間の「自然な」美意識ではなく、後天的に学んだ、不自然なものかもしれない。しかしそれを、同病相憐む式の欺瞞として笑えるのは、本当はよほど恵まれた人間だけなのだ。持たざる者には持たざる者の美意識が必要である。ここにオタクの、かっこいいもの、かわいいもの、きもちいいものを並列に収集することを至上とするフェティッシュな芸術観へのカウンターがあり、美が慈悲や道義的理性と共存しうる可能性があるのである。