2012年6月28日木曜日

オタクが反逆者だったことはあったのか(1)

およそオタク以前の時代は、知的な大人は現実社会において、社会正義の実現に関心を持たなければならない、という価値観が少くともタテマエとしては主流で、だからこそ大人がフィクションに過度に沈溺することに、世間は否定的だった。少くとも、大人が鑑賞するものには、現実社会の役に立つような、社会性、テーマ性が無ければならないと考えられていた。

そこに、「一般人のくせに社会問題などに関心を持つのは、自分を賢く善良にみせかけようとする賤しい偽善者のすることである、むしろ政治性、テーマ性に逃げずに純粋にメカやら美少女やらを審美的に愛玩する自分達こそ、真に知的な人間だ」という価値観の逆転を持ちこんだのが、オタク文化であり、ここにオタク文化の基本的な精神がある。
今日、大人がマンガやアニメを見ていても特に何もいわれない社会が実現したのは、そういう逆転の成果であった。

比較的古参のオタクはしばしば、こういう歴史的経緯をもって、オタクこそ体制に対する反逆者であると規定する。

しかし、これは本当は何に対する反逆だったのだろうか。



およそオタク文化が持っている、価値相対主義的、冷笑的性格は、一部でサヨク的なものと見なされるので、これがオタク文化の右翼性をめぐる議論を混乱させる。

だが、相対主義とニヒリズムは、近代以降の右翼思想、とくにロマン主義的右翼の中心的な部分である。
普遍的正義を志向する啓蒙主義に対する「反逆」としての近代の右翼思想は、「宗教も民族もぶっちゃけフィクションかもしれないけど、そっちの方がもり上るんだから、そういうことにしとけよ」という一種のひらきなおりの面を、大なり小なり持つ。彼らが色々の理論を口にしたとしても、決して本気では信じていない。
結局のところ、宗教的、伝統的共同体を素朴に信じられた時代にはいまさら戻れないのであり、そこに近代以前の伝統志向と、近代の保守/右翼との根本的な違いがある。

今日のネット右翼に、記紀神話を額面通りに信じるのか、と聞けば、そういうことにしておいた方が、社会秩序が維持されるとか何とか、功利主義的なことを答えるだろう。俺が神話をまるごと信じるようなバカだと思ったのか?と言わんばかりにせせら笑いながら。

一般に古典的な左派は真面目なので、こういう右翼思想の本質である不真面目さがよく理解できない。相手もまた自分とは別の、何らかの理念を持っていると考えてしまうのである。

だがオタクにはこういった右翼のノリは生得のもののように良く解る。「つまらん真実よりも面白い嘘」「フィクションと知りつつあえてハマる」というのは、まさにオタクの哲学そのものなのだから。