2012年6月27日水曜日

オタクの政治的コンセンサスとしてのネット右翼

今日、いわゆるネット右翼ムーヴメントは、オタクの政治部門としての機能を果している。
オタクとの関係を無視してネット右翼運動を理解することはできないし、ネット右翼を無視してオタク文化を語ることもできない。

かくして、オタク界隈では、朝鮮人、中国人、左翼、貧困層などは悪の代名詞であり、実際アニメやゲームなどの作品に否定的な評価をするとき、これらのレッテルを貼ることは今日び「オタク用語」の一部であるから、こういうネット右翼的世界観を共有していなければ、オタク同士の交際にも差し障りがあるというわけである。そしてまた、これらの世界観を土台にして、日々あらたなオタクネタが作られていく。

一方だからと言って、オタク一般との付き合いは断って、一人で作品を鑑賞して楽しむことができるかと言えば、そうもいかない。
というのも、いわゆるオタク向け作品というものは、皆でネタを共有しあい、話題にすることを楽しむことが主眼であり、一人で鑑賞して楽しめるようにはまず出来ていないからである。
むしろそういう、作者と鑑賞者が個人として向かい合うというような近代的芸術観を、古くさく窮屈なものとして進んで否定してきたのが、オタクの歴史でもあった。

だからこそ、製作者側も、ネットが主要なオタクのコミュニティとなった現在、そこで評判を取るべく、その方面にしか解らないネタを積極的に作品のなかに仕込む。こうして常に「暗黙の了解」「オタクのコンセンサス」というものを送り手と受け手とで形成しながら、それについてこれない者を部外者として排除する、そういうゲームが、オタク活動というものの一つの形態である。

オタクにはいざとなると急に個人主義的態度になり、自分はネット右翼とは関係ないという態度を取る者もいる。しかしオタク文化とはコンセンサスの文化であり、このオタクの「暗黙の了解」の集積こそが、オタク文化の本体であり、オタクの意思であり、オタクの選択である。その中に、右翼的な世界観が深く根付いているということの意味を、考えなければいけない。

そうしてまた、今日の日本の排外主義的、新自由主義的政策は、オタク=ネット右翼層の声を「国民の声」として取り上げ、彼らの動向を横目で睨みながら、進められていくのであった。

こういったことはこの10年くらいで目立つようになったことではあるが、決して歴史の偶然でたまたまこうなったわけではない。
つまり、オタク文化は当初より右翼的性格を持っていたのであり、ネット右翼がオタク文化の政治的代表権を持つというのは、単に現状がそうであるだけでなく、正統性の問題でもあるのだ。