2013年5月23日木曜日

一部でネットが市民的自由や資本主義超克を推進するものと見なされる奇怪(2)


ネットではコンテンツは無料であるのが当然という意識が強く、また著作権にルーズな所がある。作品を相互に引用しあい、改変、パロディ化するのはオタクが好む手法でもあり、ネットのこういう部分はオタク文化との親和性も高い。

こういうネットの無料/共有文化を、ある種の共産主義的なもの、資本主義的生産活動を超えていく動きとして捉える論調というものが、たまにある訳である。

しかし実際には私達は、通信量と、商品の値段に上乗せされた広告費という形でネットの世界に金を落としている。だからネットの無料文化は、かつては実際に何かを作成している人が受けとった筈の取り分が、インフラストラクチャーや、広告収入が見こめる集客力などの「場所」的な権益を有する者に移るしくみに過ぎない。かかる地主丸儲け的なシステムを、資本主義の超克と見做すのは適切ではない。資本主義どころか、下手をすると近代以前である。

ネットは管理と効率化のシステム、管理する側がコストを減らしてさらに利益を上げるためのツールである。そこには、労働者の生産性を直接向上させるような性質は実のところ希薄である。ネットは我々の時代を代表するテクノロジーであるが、そこには20世紀的なテクノロジーが持っていたような、その発展が一般大衆を豊かにするといった性格はないし、その豊かさが、大衆の政治的解放につながるという展望も持てない。現実のネットに常につきまとうのは貧困のイメージである。

一方、オタク界隈にも一定の影響力のある、いわゆる「嫌儲」運動などを、ネットの収奪的構造を批判するものとして理解するのも、なかなか難しいように思う。「嫌儲」の矛先が、広告規制のあり方とか、ネットの構造そのものに向くことはあまりない。「権威ある」大企業などが儲けるのは良いが、我々と「同レベルの」存在であるはずのアフェリエイターなどは「誰の許しを得て」儲けているのか、というネットにおける職業身分意識が、やはりその主題である。

余談ながら、2ちゃんねるのまとめサイトのようなものが、ネット右翼ムーブメントを扇動する大きな役割を果たしている等の意見は、事実と異なるように思われる。そもそも2ch自体に、リベラルな意見は無視できる程度しか存在していない。もちろん、今日では、既存の保守、右翼系のメディアや政党など様々な勢力が、オタク=ネット右翼ムーブメントを利用しようと積極的に介入してきているし、オタク界隈もその政治面での指導を受け入れている面がある。しかしこれらは結局、後から便乗してきたものであり、オタク=ネット右翼運動自体は草の根的な性質を持つ。そこにむしろ問題の深刻さがあるのである。

今日の新自由主義的雰囲気においては、経済活動の自由といえば、金融市場の自由である。投資家の独創的な投資判断が、経済を発展させる原動力である、それに比較すれば、古典的な生産者や消費者の「自由な」経済活動などは、二次的な影響力しか持たない、そういう今日風の経済観のもとでは、自由は結局一部の人間にしかあてはまらないものである。そのため、政治的実践においては、自由主義と上記のような身分意識が普通に共存し得る。共存どころか、今日の日本の新自由主義的、反福祉国家的政策に対する国民的な支持は、富者を崇拝する一方で、同格と見なしていた者が勝手に豊かになろうとする事は許さないという、現代的な身分意識をもっぱらその心情的基盤にしていると言えるだろう。こういう意識は、ネットの経済構造ともよく調和するものである。

いわゆるハッカー文化というものも、情報技術が本来、国家や大企業のためのものであるという現実を踏まえて、あえてそこに、ユーザー個人の生産性、創造性を高めるためのコンピューティングという理想をぶつけて揺さ振りをかける所に意義があるのである(思うに、こういう敵の道具を使って敵を攪乱するという、一種の奇策が主体であるところに、ハッカー運動の限界もまたあるのだが…)。一方、我が国の技術系オタク文化には、こういう対立をふくむ部分がない。ときには、ハッカー風の自由があたかもネットに本来的に備わっているかのように偽りながら、ネット的なものと無条件に慣れ合っていくのであった。

オタクは元来、消費活動、趣味の活動である。今日のオタク界では作品を送り出す側もだいたいオタクであるが、職業的なオタクは全体から見れば少数である。そんな中で、ネット・IT業界は、オタクと親和性の高い産業、職種として、オタクムーブメントに一定の生産者的、経済的基盤をも与える。オタク文化を社会的ポジションの面から見ると、中産階級を必要とせず、少数のエリートが大衆を直接管理するというネット時代の身分、格付け意識において、支配する側の人間でありたいとする者の文化という部分を持つだろう。オタクの用語で言うところの「情強」というものであろうか。

今日のネットの影響力を考えれば、持たざる者の側に立って政治を考える者も、ネットで活動していくことは無論必要である。しかしそれは、敵の土俵で戦わざるを得ないという困難な状況を表わすものでしかない。ゆえに、ネット内部で活動すること自体が目的化しないよう気をつけること、また、ネットの外に足場を持つことなどか、重要になってくると思われる。