2012年9月29日土曜日

現代日本の知識階級のイデオロギーとしてのオタク文化(2)

「低学歴」というのと同様に、「ゆとり」というのも、罵倒と嘲笑の言葉としてオタクのコードの中に組み込まれて久しい。

ゆとり教育批判においては、よく社会階層の固定化を招くとかの意見があったが、このへんはだいたい後づけの議論であろう。それを言うなら、現代の教育制度が、中産階級の権益がむやみに拡散することを防ぐための関門になり下っているという事が、同時に問題にされなければならないが、そういう事は、所与の現実として肯定されてしまうのであるから。

では、実際には何が批判されていたのか。少くともネットでの批判の多くは、「何のための学問か」という疑義を持つこと自体を、負け犬の遠吠えと見なし、否定するという点に主眼があったように思われる。曰く、国際テストの点数で負けていいのか、競争に勝てるたくましい生徒を育てなければならない、文句は、まず勝者になってから言うがいいと。

しかしながら、学問の目的ということは、初学者であれ、立派な知識人であれ、常に立ち帰って考えなければならない問題である。わりとああいったレベルで議論が決着したことは、オタク的な知的マッチョ、知識の自己目的化ということが、日本の国家的合意となったということでもあった。

なおほかにオタクが相手にバカのレッテルをはる時の言葉としては「文系」というのもある。オタクの道義的判断を棚上げする態度は、理系信奉という形で表れることもある。もとより自然科学が道義的価値判断を保留するのは、学問としての守備範囲の話に過ぎないが、オタク文化においてはしばしば知的プライドの問題と結びつく。

****

オタクが自分達を冷静で現実主義的な知的選良と見なす一方で、また自分達が世間から偏見の眼で見られ、冷遇される存在であると考え、不満を訴えるのは、何を意味するのか。

オタクへの偏見ということは、かつてたしかにあったのであるが、その偏見に対する怒りの中には、「自分達は賢いのに、それに相応しい扱いを受けていない」というニュアンスがしばしば含まれていた。ここにおいて、オタク・ムーブメントは、底上げを重視し、あらゆる人に広く教育を施すことが社会全体の善の増大につながるという、戦後民主主義的な教育理念に対する「報復」の運動という方向性を孕むだろう。

また、戦後の日本では、学校では、一般的な教養、総合的知性を教える一方、実践的教育は企業や職場が改めて担うというような分担が、成立していたように思われる。これはこれで合理的なシステムだったと思うのだが、一方このしくみは、学校で教わったことは、実社会では、直接的には役に立たないし、学校での成績の良さが自動的に社会で尊敬される訳でもない、ということを意味する。(それでも決して、教育を受けた人間が尊重されていないという事ではなかったのだが)

近年の新自由主義的潮流は、こういった「旧態依然とした」日本の教育システムを解体していったが、これは多くのオタク的知性にとって、支持すべきものであった。

****

今日の日本では、オタク文化に背をむけようとしても、オタク関連以外の文化はなおいっそう停滞気味なのが現実である。そこで、日本語で表現された同時代のインドア系の娯楽やアートに関心を持つような層は、みな大なり小なりオタク文化に触れることになる。今や、ある年齢以下の人々の国民的素養と言えるものは、アニメやマンガやゲームしかない。
韓流バッシングということがあり、一部のオタクも同調した。しかし韓流ドラマの攻勢は、むしろ日本におけるオタク文化の支配的状況を物語るものである。つまり、我々の社会は、非オタク向けの大衆娯楽については、もはやこれを自給する能力が無いのである。

かくて我々はオタクと関係ないつもりでいても、オタクとこれに複雑に結びついているネット右翼とを、自分達の知性と美意識の代表者として仰ぐことに甘んじている。オタクの言葉を使って思考し、議論することを唯唯として受けいれている。

今や、オタクの知的、文化的支配力、リーダーシップということが、真面目に議論されなければならない。
現実の社会システムにおいても、オタク=ネット右翼世代が重要な決定を担う地位に付くのは、いよいよこれからである。