2018年5月7日月曜日

オタクの表現様式と、「オタク左翼」の不可能性(2/2)

前世紀末から2000年代には、成人向けの美少女ゲーム、エロゲーがオタク文化の最前線となり、この領域でいわゆる「萌え」表現の様式が大いに発展、整備され、あらゆるオタクジャンルに波及していったのであった。今日ではあらゆるオタクジャンルが「エロゲ化」した結果、エロゲー自体はその役割を終えて、衰退したのだと言ってもよいかも知れない。

古参のオタクなどには、ポルノ中心主義とも言える今日のオタクカルチャーに違和感を表明する向きも見られる。そこには、ほんらい「お色気」的な要素は、客寄せのサービスで、表現作品の本質たりえないはずだという意識もあるように思われる。あるいは、売れないクリエイターが、ポルノで糊口をしのぐというような古典的なポルノのイメージというか。

しかし結論から言えば、広義のポルノこそオタク文化の主題である。ポルノ的欲求は、人間の最も私的な領域に属する事柄であるから、ポルノ表現を前面に押し出すことには、公的なものを嘲り、コケにする機能がある。エロゲーも当初は、まだ高価な事務用品だったパーソナルコンピューターを、考え得る限り最も低俗なことに使うという諧謔の要素を強く持つものであったように。

また、「萌え表現」はいわばあらゆるものを、いかに性的興味をそそるかという唯一の目的のためにデフォルメする技術の集合である。萌え作品においては、ストーリーも設定も、いかにキャラ萌えを引き立てられるかという点以外からは評価され得ない。この性質上、「萌え」には常にポルノとそうでない物との境界を破壊しようとする性質を持つ。「萌え」の観点から言えば、この世の全てはポルノのダシなのである。「三次元」の生活では、性的な場面とそうでない場面の間には線が引かれなければならないが、萌え表現ではそういう区別はあまり意味をなさない。しかしそのため、公的な価値をエロによって玩弄するという働きにおいて、萌えポルノは写実的ポルノ以上に強力だった。そして公的領域を踏みにじる加虐的な喜びが、また性的な興奮に還流されるという構造になっているのだ。

つまり、「全てはネタに過ぎない」というオタクの中心教義を表現するのに、萌えポルノはもっとも強力な様式であり、これがオタク文化の中心となったのは、オタク文化の必然的発展と言ってよいものだった。また、全てがネタであるオタク文化の中で、唯一人間の真の部分が表れているものが、この、全てをポルノとフェティシズムで飲み込んでいく情熱なのだ。

実際上も、今日、「全年齢向け」はオタク界にとっては、ポルノの領域で生み出された最新の技術やネタや表現様式や人材が、より大きな資本のもと、より広い市場、販路に適用、応用される場所にすぎないのであって、オタクの文化的コア、創造力の源泉はポルノの領域にある。またこの場合の一般向けとポルノの区別も商業上の外部からの要請にすぎず、オタク文化の内的価値観としては、18禁と一般の区別などというものは意味がないのである。

このようなオタク文化の性質を考えれば、ポルノ表現について、より厳格なゾーニングを求める者たちとオタクとが対立してきたのも当然のことで、これは根深い思想的対立であった。

碧志摩メグなどの「公共萌え」問題においても、ポルノと公的なものの境界自体を破壊することで、公共性とか社会の公平という観念自体を嘲笑い、無化しようとするニュアンスを鋭く読み取った者たちが、これに異議を唱えたというのが、やはり事の本質であって、単なるセクシュアルな物への嫌悪などではないのであった。


まれに萌えキャラに何かリベラルな政治的メッセージを語らせたりしている表現があるが、これは結局不可能なのである。萌えキャラに言わせてる時点で「こういう政治的テーマも、我々にとってはポルノのネタ、数ある萌え属性、相対的な変態趣味の一つにすぎない」という意味になってしまい、公共性に訴える力を失うからである。

では、萌えキャラに右翼的メッセージを語らせることはどうなのか。実はこれは問題ないのである。なぜならば、(ロマン主義)右翼の目的は、まさに政治のポルノ化にあるからだ。

「アニメに政治を持ち込むな」と叫ぶオタクが保守的メッセージには何も言わないことを、左派はいぶかしみ、批判する。しかしオタク=ネット右翼がやろうとしていることが、アニメに政治を持ち込むことではなく、政治にアニメを持ちこむことだと考えれば、おかしくはないということになる。現代の左派的メッセージと、右派的メッセージは、こういう点では非対称な関係にある。ロマン主義右翼は、そのルーツから言っても、政治思想である以前に、芸術思想なのであった。


一つの俗説として、芸術作品において、政治的なテーマを読み解くことは難解で知的なことであり、その美を楽しむことは容易なことだという考え方が、根強くある。単に作品の「テーマ」と言えば政治的、社会的メッセージのことを指すという認識が今でもかなりあるのも、そういった俗説に基くものではないか。

しかし、散文的、明示的、理論的に説明された「テーマ」を読みとくことは、比較的容易に正解に到達できるのに対し、美的様式を深く味わうことには、これはこれでずっと多くの訓練の時間が必要であり、しばしば文化的環境に恵まれた者にしか会得できない。それが萌えポルノのような、極めて官能的なものであったとしてもだ。

これゆえに、ある種の耽美主義は、文化的エリート、「貴族」の立場を代弁する芸術観として、政治的に保守主義と同調してきた。思うに芸術のこういう面について、現代日本の左派はかなり無防備である。

オタクの美的様式は、一貫して、これを見る者に「世界の全てをポルノのネタとして見る余裕のある、強者の視点に常に立て」と教え、またその訓練を施してきたのである。オタク文化が大衆化した現在、たとえ彼が実際には強者でも何でもないとしても…。その意味で、ネット右翼系のオタクこそ、オタク文化を最も深く理解し、その美的様式を内面化させた者なのである。それに対して、「オタク左翼」とは(いわゆる自称中立は別として──彼らは左派がオタクの本体を理解できていないことをむしろ利用している)、オタク文化を「テーマ」の面でしか理解、自覚できなかったゆえに、ネット右翼にならずに済んだという、ある種消極的な存在と言わざるを得ないのではないか。言い代えれば、ネット右翼になれなかったオタクは、そもそも自ら信じているほどにはオタクではなかったのだ。

この点で、オタク文化の世界ではしばしば能力あるクリエイターがネット右翼化している傾向にあるのも、驚くには値しないことである。しかし今日の日本では、オタクカルチャーが唯一の国民的教養、ほぼ唯一の商業的に海外進出が可能な文化となり、自らの創作の才能を世に示そうとする者の多くが、オタク関連ジャンルをその舞台に選ぶ。だからオタクに限定するまでもなく「現代日本の美的才能に恵まれたグループはたいていネット右翼運動に共感的である」と言ってしまっていい、我々に取っては厳しい状況があると思うのである。

有能なオタクはみな、自分達が求める最高傑作──オタクにとっての「意思の勝利」、あるいはゼロ戦、あるいは地獄変屏風は、強権的な権力の庇護の元でこそ達成される性質のものだと理解した上で、極右化した現代日本の保守政権を支持している。何から庇護されるのか。芸術と、そのための犠牲の必要性を理解しない、無粋で愚かな左翼から。それがオタクが言うところの「表現の自由」であった。(むろん我々はそんな傑作は見たいとは思わないが…)
ここで「オタク左翼」が保守派による表現規制の危険を訴えて、他のオタクを説得しようとしているのは、見当違いであるし、無力である。

オタク=ネット右翼運動が、それなりにその思想にふさわしい表現様式、いわば思想の身体と言うべきものを確立しているという点は、侮ることができない点なのである。多くの言葉は要らない。ただ2、3枚の萌え絵のミームをネット上に貼ればよい。そうすれば、全てのオタク的素養を持つ者(現代日本では、それは文化的市民のマジョリティである)の間に、この世の全てはポルノにすぎないという現実を直視し、表現してきた文化的強者としての自負と、この現実を直視できず、正義や公正へと逃避するみじめな「左翼」への深い侮蔑の念を、その五感全域に渡る美術的経験のレベルで喚起させ、分かち合うことができる。それに対して「オタク左派」の言葉は、身体を持たない幽霊のように、現代のネット文化の中で何物にも触れることができず、全てを素通りし、孤立していくのだ。

こういう弱点は、オタクに接近しようとする一般の左翼にも見られることである。以前、赤旗が女性向けソーシャルゲームに登場した小林多喜二を取り好意的に取り上げファンの怒りを買う事件があった(これは男性向けの萌え系とは厳密には違うが、いわゆる乙女ゲーは男性向けの美少女ゲームをそのまま裏返したような構造になっていて、男性オタク界由来の様式の影響がわりあいに強いものであり、ファンの反応もこれに沿ったものであった)。しかしあえて言うがこの事件では赤旗に反発したファンの方が正しかった。つまりこの作品には政治的表現者としての小林多喜二をリスペクトするような要素は最初から一切なく、やはりここでも政治的背景も萌えの一要素にすぎないものとして、広義のポルノに「昇華」させており、その点で、むしろ小林の政治性を小馬鹿にしている。オタクの立場から言えば「多喜二を政治から救ってやった」という所であろう。赤旗の記事はその点を読み取れておらず、誤読に基づく好意的な態度を取って、結局左派がオタクから無用の嘲りを受ける機会を自ら作っているのである。

しかし、かのプロレタリア文学もこんな表面的な政治的言及で満足するようなものではなかったはずだ。私小説の流行が、知識人の内面の矮小さに固執する、形式的で閉塞したものに成り下がったとき、これを打ち破るものとして、知識人ではなく大衆、内面ではなく身体、個人ではなく社会を描こうという、表現技術上の要請があった。そんな中で、来るべき政治の季節に相応しい表現様式を確立しようとしたのだ。

現代の左派も、そのような、ある種の美的緊張感を持って、オタクの文化的支配に対峙していかなければいけないだろう。現代の左派が自己にふさわしい表現様式を獲得しようとするとき、オタクとの文化闘争は避けて通れないのだ。