2012年7月23日月曜日

表現規制問題雑感

2010年の東京都青少年健全育成条例改正問題(いわゆる非実在青少年問題)を、保守的なオタク文化の転機だったと評する向きもあるが、あのとき抗議の中心だったのは、古参の漫画関係者などである。

マンガはオタク関連ジャンルと一般にみられるが、マンガはオタクよりも——オタクという言葉が生まれ、オタクがオタクとしての自覚を持って活動をはじめるよりも古くから、大人を対象としたジャンルとして発展してきた経緯がある。オタク以前のカウンターカルチャー的な部分も持っているのである。
一方、よりプロパーなオタクの間では、「エロマンガは読みたいが、表現の自由を声高に叫ぶようなサヨク、プロ市民みたいな真似はできない、どうするか」みたいな(左派から見ればどうでもいい)ダブル・バインドを、いかに切り抜けるかという問題が都条例をめぐる思想的最前線となったのである。


多くのオタク=ネトウヨ、サブカル保守的立場の者は、表現規制派の道徳主義的、規範主義的傾向は、サヨクの特長であるとして批判してきた。
一方、少数のオタク左派(私に言わせれば、彼等はオタク文化か左派の思想のどちらかの理解がヌルいのであるが)は、道徳主義、規範主義を右翼的なものと見なす。してみれば、道徳主義がオタクの敵であるという点では、だいたい一致しているわけであるが。

この問題は、一面では、右翼側の主張が正しい。

道徳というものは、その性質上、国家権力や、この世のどんな権威にも先行して存在することになっているわけで、それゆえに、時には反権力の側に立たされる。まあ表現の自由とか、自然法とか人権思想とかいうものも、つきつめれば一種の普遍的道徳なのである。モラリストは、完全な権威主義者にはなれない。その点、オタクは自由であり、どんな場合でも融通無碍に、強い者の側に付くことができるのであり、この点をもってオタクは自分達を「現実主義者」と規定する。

ところで、そもそも石原慎太郎という人が、かつての自身の著作に典型的に表れているように、元来道徳主義、規範主義とはもっとも縁遠い人物である。まだ若い頃には、その身体性、暴力性、反社会性をもって文弱の徒どもを威圧することで名声を得たが、地位を得てからは、今度はその社会的権威を最大限利用するというまでである。

そういう意味で、条例改正問題においても、都知事にとっては、敵がマンガやオタクである必然性はなく、たまたま槍玉にあがっただけであろう。都知事の支持者は、弱い者に対して自分も横暴に振舞ってみたいとう願望を代行してくれる者にあこがれ、支持している。相手は勝てるならわりと誰でもよいのである。

こういう石原都政の遊戯的でロマンチックな性格には、実のところオタクとの思想的対立点はあまりないのである。オタクの間では「二次元を規制する前に○○を規制しろ」のような、いかに矛先をそらすかという形の議論が目立ったのも自然な話であったろうか。

また、都の表現規制が思想的、道義的規範によるのではないという事実は、規制が厳しくなっても、おとなしく、目立たないように活動し、敵対を避けていればすぐには困らないだろうというオタクの希望的観測の理由にはなる(実際には、政治的なネタ作りのためだけに、相手を完全に潰すということもあるのだが)。

それよりは、サヨク的なものの方がオタクにとって依然として危険という訳である。左派は漫画やオタクを法で禁止はしないかもしれないし、そもそもそんな権力もないが、人権思想などの普遍的規範になにかしらの敬意を払うような社会では、そもそもオタク文化のようなものはあまり流行らないか、本質的に変化せざるを得ないだろう。左翼的なものは、オタク文化を、より内面的な部分で危険にさらす。左翼的なものは、オタクのアイデンティティに対する挑戦となる。多くのオタクは、直感的にそのことを知っているのである。

しかし、表現規制の問題は、もとよりオタクだけで終わる問題ではない。だからこそ、コミック等の規制に反対する者は、かえってオタク文化からある程度距離を置いて考える必要がある。


表現規制に反対する者の一部で、保守的なオタクを「肉屋を支持する豚」と呼ぶことが流行した。しかしながら、こう言われてたじろぐのは軽度のオタクだけで、筋金入りのオタクであれば、こんな批判は全く意に介さないだろう。そもそも「我々はみんな豚で、養豚場の『外』の世界など無い」というのが、オタクの思想だからだ。肉屋が高く買ってくれるから、エサがもらえるのだ。ならば、良い肉豚であることに徹し、ケージの中の平和を堪能するべきだ。それが出来無い敗者が、養豚場の外の世界というサヨク的空想の中に逃げ込み、肉屋に反抗できると錯覚するのだ、と。

これは現代社会の一面の真実ではあるし、日本のオタク文化はケージの中で快適にすごすテクニックの開発で実際世界を驚かせるレベルにまで達し、国内的にはほぼ唯一の、まだ多少は活力の残っているコンテンツ産業となった。これはそういう彼らの成功体験に裏打ちされたオタクの矜持でもあり、単なる虚仮脅しと侮るべきではない。

オタク=ネトウヨ文化の克服とは、かかる思想と真剣に対決していくことだ。