2012年8月21日火曜日

現代日本の知識階級のイデオロギーとしてのオタク文化(1)

オタクの言葉で相手を罵倒する時のレパートリーといえば、「朝鮮人」「左翼」の次は「低学歴」と来るわけで、オタクの拠って立つ価値観が表れている話ではある。

そもそもオタク文化の最も原初的な性格は、知識比べのゲームという点にあるだろう。「オタク」という語を最も広い意味で使うとき、それは好事家とかマニアというのとだいたい同じになるのだが、その場合でも、役に立つのか立たないのかよく分からない知識をひけらかす人というニュアンスは残るわけである。

知識自慢のためには、どうしても相手が、それもある程度認識を共有している同好の士が要る。オタク文化やオタク向け作品が、コミュニティの存在を前提とする理由はここにある。一方、常に同類を必要とし、排他的であるわりには、仲間意識や連帯感のようなものは希薄である。そういうものは、「体育会的なもの」として寧ろ軽蔑している。結局、相手は自分の知識のためのダシであり、共同してなにかを成し遂げるような関係にあるわけではないということだろうか。

ところで、こういう特徴を持つ人々は、概してペーパーテスト的な事は苦手ではないはずで、学歴的観点から言えば、オタクを社会的敗残者と見なすような一部の論調は、まず事実関係としても正確でない印象はある。
しかしより本質的なのは、属人的事実ではなく、オタクが自らを知的エリートと規定し、あるいはエリートに自己投影し、常にエリートの側に立って思考するということである。

洋の東西を問わず、かつて理性とか知恵という言葉は、善悪について判断する力という意味合いを含んでいたわけである。これは、善や正義というものが、人間の気分や感情の問題ではなく、何らかの意味で世界の普遍的法則として存在するという、形而上学的思考に由来する。しかし現代では、マルクス主義あたりを最後に、こういう発想法は一向に流行らないから、きょうび「理性的に考えろ」と言われたら、それは「善悪についての判断は保留しろ」の意味である。現代日本の知的エリートとは、道義的な判断を保留する訓練において、好成績を収めた者である。


オタク=ネット右翼は、つねづね「感情的」な左翼に対して、自分達を理知的な存在として誇っているが、それは上記のような文脈において正しいわけである。左翼にとっては、懐疑的知性はせいぜい社会的公正を実現させていくための手段でしかない。そういう態度を感情的と呼ぶのがオタクの用語であるなら、まあ感情的と言われるのは名誉という他はないが。

こうして、オタク世代にあっては、自らの知性に自負心を持つ者、高い水準の教育を受けた者が保守的、右翼的となる傾向にある。ネット右翼に無知蒙昧のレッテルを貼って安心している人々もあるが、そう簡単ではないわけである。