2013年3月18日月曜日

飢えない限り一般人は政治に関心を持たないし、持つべきではないというサブカル保守の教条


革命とか蜂起とか一揆というものに、飢えた民衆が自暴自棄となって起こすものというイメージを持つ向きがある。

これは裏を返せば、とりあえず食うものがある私達は、社会変革、世直しに関心を持たないのは当然で、関心を持たなければならないとする左翼、市民運動家の態度は欺瞞であるという考え方になる。またそれは、政治に関心を持たず、趣味に沈溺する生き方を肯定するものとして、サブカル保守と、その先鋭化された形態であるオタク=ネット右翼の思想を支える政治運動観、大衆観なのであった。

政治に関心を持たない「素朴な大衆」のようなものを設定しておいて、自らはその擁護者、代弁者であると位置付けるのは、ロマン主義右翼の一つのパターンである。欧州のロマン主義がカトリック教会とその信徒に求めたイメージがそうであったし、またわが国の国学運動が、「からごころ」に汚染される以前の純粋無垢な日本人というものを想定するといったように。

こういった関係で、サブカル保守、オタク=ネット右翼は、彼等の自己理解では多くの場合、いわゆるノンポリである。傍から見れば、ネット右翼などは甚だ政治的であるが、それは彼等の立場では、左翼、プロ市民から、政治に走らない「まともな人々」を防衛する為の止むを得ない政治活動ゆえに、許容されるのである。権利を主張する奴等がいるから、この「無垢の人々」の利益が相対的に侵害されるという訳である。こういった、彼らの戦闘的ノンポリとも言うべき自己規定が、我々が彼らを右翼だと非難しても、先方は一向に意に介さず、効果がない理由でもある。一般にロマン主義が、大衆的、反体制的であると自己を偽装し、あるいは実際に自らそう信じこむのは、こういった文脈においてである。


この「教条」が持つ一つの問題としては、こういったサブカル保守的な考え方が広く支持されたのは、かつての日本の豊かさがあって可能な事だったという点があるだろう。かつて地味で暗いと謗られたオタク文化も、一面ではまたバブル日本の落し子なのである。
しかし、今日わが国の指導層は、すべての人が趣味に金をかけられるような社会構造を維持しようという意図を、明らかに持っていない。我々の知的代表者達は、かかる中流的豊かさを「既得権益」と呼び、これを排除することが現在の日本に必要であると力説する。この流れに対抗し得る政治的勢力は、現状、存在しない。

オタク文化は、世の中をネタとして見る余裕のある者が、その余裕のない者を見下して笑うという面を有している。困窮している人間は、何事にも真剣にならざるを得ず、またなりふり構っていられないが、その真剣さが、オタクには愚かさにしか見えない。オタク文化の中から、困窮している人間への同情や共感という要素を引き出すことは難しいことである。

しかし実際には、中流層の解体は、オタクの大衆文化的な面での経済的基盤を掘り崩すことでもある。今後の日本で、こういったオタクのセンスに共感できる人間は、やはり、ある程度減りはするだろう。

だが一方で、貧しさとは、結局のところ、相対的な話でしかない。貧困のみを問題にするなら、しばしばあることだが、近代以前の貧しさを引き合いに出されれば、黙るしかないということになってしまう。それこそ、実際に餓えて死にかかってから来いという訳である。

そうしてまた、一部左派の間でも、国民が政治的に立ちあがる時があるとすれば、いまよりももっと絶対的な、多くの人間の生死に関るような困窮が出現した時ではないかと、ある種の屈折した希望が、口にされる。それは、サブカル、オタク的大衆観の裏返しなのであった。

しかし実際には、本当に困窮した民衆は、もう政治活動など出来無いのである。
今の日本でも、経済的困窮につれて、いよいよ強い者に媚びて生き延びるしかない、という無力感が蔓延していくばかりではないか。貧窮に政治的ムーブメントの契機を見いだそうとする発想には、そもそも限界がある。


およそ人が政治的に立ち上がるには、連帯することが必要なのであって、自暴自棄では連帯は出来ない。西欧の市民革命にしても、我が国の自由民権運動などにしても、全体として見れば、人々のくらしは少しづつだが向上しつつある時代のことであった。民衆には、自分達が世の中を支えているという自信と活力があった。だがそれに反して、制度上はろくに政治的権利が与えられていない、そういう不公正にこそ、問題の本質があった。困窮は、きっかけに過ぎない。

一般的に考えても、どんなに困窮したとして、皆が困窮しているなら、無い物を分けあって耐え忍ぶより他はない。不正への怒りが無ければ、政治的運動はありえない。そして不正に怒るには、正しい政治というものがあり得るというアイデアが、根底になければならない。
かつて庶民は日常生活に追われる一方で、自分達がしばしば不正な取り扱いを受けているゆえに、正義に素朴な敏感さを持っていた。それはサブカル=オタク的心性が意識的に無視しようとしてきた、民衆とその政治的活動の一面なのである。


今の日本で政治運動を志す者の多くが、イデオロギー(=政治の「正しさ」)についての議論こそが、一般の人々を政治から遠ざけるのであると言い、ひたすら利益を守り、困窮を避けることを中心に訴えていくべきであると言う。

だが、利益への誘導と困窮の忌避では、むしろ一般人を連帯させ、政治的な力に結びつけることなど出来無いのだ。

今、貧困ゆえに教育を受けることを諦める者がある。金銭的理由で医者にかかることをひたすら恐れる者がある。生活保護の水際作戦で追い返された者が餓死し、原発事故で故郷を失なった者が流浪する。しかしこれがいかに残酷であろうと、結局は一部の人間の苦しみに過ぎないという事になる。利益をもって訴えるなら、まさに自分の利益を守るために、これらの人々を見なかったことにしよう、そう決断する者をどうして咎めることができるか。

もちろん、こういった事はみな、今や明日は我が身とも知れない話であるが、既に経験した者とそうでない者の間には、大きな溝があると言わなければならない。その溝を乗り越えられるのは、不正への怒りであり、正しさへの期待以外にありえないではないか。

加えて、先にも言えるように、今日のオタク=ネット右翼の文化的リーダーシップの元では、困窮を訴えることは、さらなる嘲りを受けるだけであり、同情する者は少ない。しかしだからこそ、今、困窮する人々を救おうとする者は、不正への怒りをこそ、人々に思い出さしめなければならない筈である。