tag:blogger.com,1999:blog-8746873439163434712024-02-21T06:34:23.407+09:00オタク=ネトウヨ文化克服のためのメモUnknownnoreply@blogger.comBlogger17125tag:blogger.com,1999:blog-874687343916343471.post-50069002936492493702018-05-07T22:58:00.001+09:002018-08-22T21:53:20.745+09:00オタクの表現様式と、「オタク左翼」の不可能性(2/2)前世紀末から2000年代には、成人向けの美少女ゲーム、エロゲーがオタク文化の最前線となり、この領域でいわゆる「萌え」表現の様式が大いに発展、整備され、あらゆるオタクジャンルに波及していったのであった。今日ではあらゆるオタクジャンルが「エロゲ化」した結果、エロゲー自体はその役割を終えて、衰退したのだと言ってもよいかも知れない。<br />
<br />
古参のオタクなどには、ポルノ中心主義とも言える今日のオタクカルチャーに違和感を表明する向きも見られる。そこには、ほんらい「お色気」的な要素は、客寄せのサービスで、表現作品の本質たりえないはずだという意識もあるように思われる。あるいは、売れないクリエイターが、ポルノで糊口をしのぐというような古典的なポルノのイメージというか。<br />
<br />
しかし結論から言えば、広義のポルノこそオタク文化の主題である。ポルノ的欲求は、人間の最も私的な領域に属する事柄であるから、ポルノ表現を前面に押し出すことには、公的なものを嘲り、コケにする機能がある。エロゲーも当初は、まだ高価な事務用品だったパーソナルコンピューターを、考え得る限り最も低俗なことに使うという諧謔の要素を強く持つものであったように。<br />
<br />
また、「萌え表現」はいわばあらゆるものを、いかに性的興味をそそるかという唯一の目的のためにデフォルメする技術の集合である。萌え作品においては、ストーリーも設定も、いかにキャラ萌えを引き立てられるかという点以外からは評価され得ない。この性質上、「萌え」には常にポルノとそうでない物との境界を破壊しようとする性質を持つ。「萌え」の観点から言えば、この世の全てはポルノのダシなのである。「三次元」の生活では、性的な場面とそうでない場面の間には線が引かれなければならないが、萌え表現ではそういう区別はあまり意味をなさない。しかしそのため、公的な価値をエロによって玩弄するという働きにおいて、萌えポルノは写実的ポルノ以上に強力だった。そして公的領域を踏みにじる加虐的な喜びが、また性的な興奮に還流されるという構造になっているのだ。<br />
<br />
つまり、「全てはネタに過ぎない」というオタクの中心教義を表現するのに、萌えポルノはもっとも強力な様式であり、これがオタク文化の中心となったのは、オタク文化の必然的発展と言ってよいものだった。また、全てがネタであるオタク文化の中で、唯一人間の真の部分が表れているものが、この、全てをポルノとフェティシズムで飲み込んでいく情熱なのだ。<br />
<br />
実際上も、今日、「全年齢向け」はオタク界にとっては、ポルノの領域で生み出された最新の技術やネタや表現様式や人材が、より大きな資本のもと、より広い市場、販路に適用、応用される場所にすぎないのであって、オタクの文化的コア、創造力の源泉はポルノの領域にある。またこの場合の一般向けとポルノの区別も商業上の外部からの要請にすぎず、オタク文化の内的価値観としては、18禁と一般の区別などというものは意味がないのである。<br />
<br />
このようなオタク文化の性質を考えれば、ポルノ表現について、より厳格なゾーニングを求める者たちとオタクとが対立してきたのも当然のことで、これは根深い思想的対立であった。<br />
<br />
碧志摩メグなどの「公共萌え」問題においても、ポルノと公的なものの境界自体を破壊することで、公共性とか社会の公平という観念自体を嘲笑い、無化しようとするニュアンスを鋭く読み取った者たちが、これに異議を唱えたというのが、やはり事の本質であって、単なるセクシュアルな物への嫌悪などではないのであった。<br />
<br />
<br />
まれに萌えキャラに何かリベラルな政治的メッセージを語らせたりしている表現があるが、これは結局不可能なのである。萌えキャラに言わせてる時点で「こういう政治的テーマも、我々にとってはポルノのネタ、数ある萌え属性、相対的な変態趣味の一つにすぎない」という意味になってしまい、公共性に訴える力を失うからである。<br />
<br />
では、萌えキャラに右翼的メッセージを語らせることはどうなのか。実はこれは問題ないのである。なぜならば、(ロマン主義)右翼の目的は、まさに政治のポルノ化にあるからだ。<br />
<br />
「アニメに政治を持ち込むな」と叫ぶオタクが保守的メッセージには何も言わないことを、左派はいぶかしみ、批判する。しかしオタク=ネット右翼がやろうとしていることが、アニメに政治を持ち込むことではなく、政治にアニメを持ちこむことだと考えれば、おかしくはないということになる。現代の左派的メッセージと、右派的メッセージは、こういう点では非対称な関係にある。ロマン主義右翼は、そのルーツから言っても、政治思想である以前に、芸術思想なのであった。<br />
<br />
<br />
一つの俗説として、芸術作品において、政治的なテーマを読み解くことは難解で知的なことであり、その美を楽しむことは容易なことだという考え方が、根強くある。単に作品の「テーマ」と言えば政治的、社会的メッセージのことを指すという認識が今でもかなりあるのも、そういった俗説に基くものではないか。<br />
<br />
しかし、散文的、明示的、理論的に説明された「テーマ」を読みとくことは、比較的容易に正解に到達できるのに対し、美的様式を深く味わうことには、これはこれでずっと多くの訓練の時間が必要であり、しばしば文化的環境に恵まれた者にしか会得できない。それが萌えポルノのような、極めて官能的なものであったとしてもだ。<br />
<br />
これゆえに、ある種の耽美主義は、文化的エリート、「貴族」の立場を代弁する芸術観として、政治的に保守主義と同調してきた。思うに芸術のこういう面について、現代日本の左派はかなり無防備である。<br />
<br />
オタクの美的様式は、一貫して、これを見る者に「世界の全てをポルノのネタとして見る余裕のある、強者の視点に常に立て」と教え、またその訓練を施してきたのである。オタク文化が大衆化した現在、たとえ彼が実際には強者でも何でもないとしても…。その意味で、ネット右翼系のオタクこそ、オタク文化を最も深く理解し、その美的様式を内面化させた者なのである。それに対して、「オタク左翼」とは(いわゆる自称中立は別として──彼らは左派がオタクの本体を理解できていないことをむしろ利用している)、オタク文化を「テーマ」の面でしか理解、自覚できなかったゆえに、ネット右翼にならずに済んだという、ある種消極的な存在と言わざるを得ないのではないか。言い代えれば、ネット右翼になれなかったオタクは、そもそも自ら信じているほどにはオタクではなかったのだ。<br />
<br />
この点で、オタク文化の世界ではしばしば能力あるクリエイターがネット右翼化している傾向にあるのも、驚くには値しないことである。しかし今日の日本では、オタクカルチャーが唯一の国民的教養、ほぼ唯一の商業的に海外進出が可能な文化となり、自らの創作の才能を世に示そうとする者の多くが、オタク関連ジャンルをその舞台に選ぶ。だからオタクに限定するまでもなく「現代日本の美的才能に恵まれたグループはたいていネット右翼運動に共感的である」と言ってしまっていい、我々に取っては厳しい状況があると思うのである。<br />
<br />
有能なオタクはみな、自分達が求める最高傑作──オタクにとっての「意思の勝利」、あるいはゼロ戦、あるいは地獄変屏風は、強権的な権力の庇護の元でこそ達成される性質のものだと理解した上で、極右化した現代日本の保守政権を支持している。何から庇護されるのか。芸術と、そのための犠牲の必要性を理解しない、無粋で愚かな左翼から。それがオタクが言うところの「表現の自由」であった。(むろん我々はそんな傑作は見たいとは思わないが…)<br />
ここで「オタク左翼」が保守派による表現規制の危険を訴えて、他のオタクを説得しようとしているのは、見当違いであるし、無力である。<br />
<br />
オタク=ネット右翼運動が、それなりにその思想にふさわしい表現様式、いわば思想の身体と言うべきものを確立しているという点は、侮ることができない点なのである。多くの言葉は要らない。ただ2、3枚の萌え絵のミームをネット上に貼ればよい。そうすれば、全てのオタク的素養を持つ者(現代日本では、それは文化的市民のマジョリティである)の間に、この世の全てはポルノにすぎないという現実を直視し、表現してきた文化的強者としての自負と、この現実を直視できず、正義や公正へと逃避するみじめな「左翼」への深い侮蔑の念を、その五感全域に渡る美術的経験のレベルで喚起させ、分かち合うことができる。それに対して「オタク左派」の言葉は、身体を持たない幽霊のように、現代のネット文化の中で何物にも触れることができず、全てを素通りし、孤立していくのだ。<br />
<br />
こういう弱点は、オタクに接近しようとする一般の左翼にも見られることである。以前、<a href="https://matome.naver.jp/odai/2148991226393928701" target="_blank">赤旗が女性向けソーシャルゲームに登場した小林多喜二を取り好意的に取り上げファンの怒りを買う事件</a>があった(これは男性向けの萌え系とは厳密には違うが、いわゆる乙女ゲーは男性向けの美少女ゲームをそのまま裏返したような構造になっていて、男性オタク界由来の様式の影響がわりあいに強いものであり、ファンの反応もこれに沿ったものであった)。しかしあえて言うがこの事件では赤旗に反発したファンの方が正しかった。つまりこの作品には政治的表現者としての小林多喜二をリスペクトするような要素は最初から一切なく、やはりここでも政治的背景も萌えの一要素にすぎないものとして、広義のポルノに「昇華」させており、その点で、むしろ小林の政治性を小馬鹿にしている。オタクの立場から言えば「多喜二を政治から救ってやった」という所であろう。赤旗の記事はその点を読み取れておらず、誤読に基づく好意的な態度を取って、結局左派がオタクから無用の嘲りを受ける機会を自ら作っているのである。<br />
<br />
しかし、かのプロレタリア文学もこんな表面的な政治的言及で満足するようなものではなかったはずだ。私小説の流行が、知識人の内面の矮小さに固執する、形式的で閉塞したものに成り下がったとき、これを打ち破るものとして、知識人ではなく大衆、内面ではなく身体、個人ではなく社会を描こうという、表現技術上の要請があった。そんな中で、来るべき政治の季節に相応しい表現様式を確立しようとしたのだ。<br />
<br />
現代の左派も、そのような、ある種の美的緊張感を持って、オタクの文化的支配に対峙していかなければいけないだろう。現代の左派が自己にふさわしい表現様式を獲得しようとするとき、オタクとの文化闘争は避けて通れないのだ。Unknownnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-874687343916343471.post-37587243094329070942017-06-28T19:29:00.001+09:002018-05-07T23:01:18.527+09:00オタクの表現様式と、「オタク左翼」の不可能性(1/2)初期のオタク文化の時代は、まだ世の中に、一般人も社会問題に関心を持つべきだという左翼的な(保守主義者達は、人がその分限、職務を超えて政治的であることを好まないという点で)考えが世間に残っていたので、オタクとしても、そういう態度をとる傾向にあったのである。なまじオタク文化をいつかは世間に認められるものにしたいという野心のあるオタクほど、その必要を感じていた。「ゴジラのテーマは反核」「ガンダムは反戦」などという解釈、主張は、そういう空気を背景としたものであった。しかしこれは今日からみるとやはり滑稽に見える。これらの作品の一番力が入っていて、見どころとなる部分が、取ってつけたような政治的言及には無いことは明白だった。この問題は、作家がどういう意図でそれを作ったかということではなく、実際の作品がどうなっているかという話である。別の言い方をすれば、作家が言葉の上だけで考えたことではなく、芸術家としての技巧全体を通じて考えたことは何かということである。<br />
<br />
優れた政治的、社会的メッセージというものは、ある種の「当事者性」が重要なのである。問題を一般論として、単なる知識として、消費させてはならない。聞き手に、これが現実の問題であることを思い知らせ、当事者としての決断を迫るような生々しさが無ければならない。受け手を挑発して、問題の中に引きずり込む力が無ければならない。<br />
<br />
その点で、政治的メッセージに寓意的表現は本来あまり適さない。名指しで議論をすると、弾圧を受けるというような場合はやむを得ないが…。一方、特撮やアニメーションのような「オタク系」表現にも、いろいろな可能性があるとはいえ、その豊かな鉱脈は、やはり寓意やファンタジーにあった。アニメがオタクの芸術部門として選ばれ、オタク・ムーブメントの中心的地位を占めるようになった理由の一つは、その寓意とファンタジーによって、あらゆる問題を括弧に入れて 、当事者性を薄め、意匠化、「ネタ」化してしまう能力の高さだろう。オタクはアニメや漫画の表現力のこういった面を発展させることに注力してきた。<br />
<br />
実際、「意匠」としてなら、ゴジラやガンダムの登場人物が核兵器や戦争に否定的な言及をすることも、一定の意味はあったのである。たとえばそれは悲壮感やスケールの大きさを演出し、作品の本来の主題である、怪獣による破壊のイメージや、モビルスーツによる戦闘のかっこよさを引き立てる効果を生む。あるいは、多少の衒学趣味を満たす味付けとすることもあるかも知れない。一方、字面どおりに政治的意味を読み取ることはこの場合誤読と言える。これは、「オタク的」な作品の読解全般に言える傾向だ。<br />
<br />
なお、オタクが空想と現実、二次元と三次元、という対立軸を設定し自分達を前者の側に置くとき、現実的であるとか三次元的であるという事は、まさにこの「当事者性」のことを指して言っているのであり、単に写実的とか緻密であるとか正確であるという意味ではないことには注意を要する。緻密であるという意味でのリアリズムは、オタクも必ずしも否定していないどころか、時には自分達をこの意味でのリアリストだと自認している。一方で当事者性の否認は、オタク文化のアイデンティティに関わる問題なのだ。<br />
<br />
ともあれ、後続のオタクから見れば、初期のオタクたちが未だ「拘泥」していた社会的メッセージ性というものは、オタクの影響力がまだ弱かった時代の、大人がアニメ等を見ることに対する弁解や方便(それは世間に対するものであると同時に、自分自身を欺くためのものでもあった)にすぎず、オタク以前の時代の名残りであり、オタク表現にとって本質的でない、足枷となるものであった。そして、それを切り捨て、表現様式、表現技術上の自由を広げる方向でオタク文化の主流は展開していくことになったのである。これは、芸術の本質が言葉で説明された部分ではなく、美的様式の中にこそあるという観点では、正しいものであった。<br />
<br />
一方今日でも、オタク文化の右翼性を否定する意見は、しばしばかの古き「ガンダム反戦説」のような芸術観に依拠している。つまり、オタクの表現様式というものを、どんな政治思想でも自由に入れることのできる中立的な入れ物とみなし、それゆえにオタクと右翼思想は本来的には無関係だというのである。だがこのような主張は、いささか表層的な見方であり、かえって「オタク左派」の弱点となるものではないか。<br />
<br />
例によって、古典的な左翼は真面目なので、芸術作品の解釈においても、よく練られていない国語のテストの設問のように、散文的に説明できる「作品の主張」を性急に求めるきらいがあった。そのため、全体の美的構造とは一致していないが、知的には把握しやすい政治的、思想的言及を主題と錯覚しがちである。反左翼芸術運動としてのオタク・ムーブメントは、遊戯的、審美主義的鑑賞の能力に優れる文化的エリートの立場から、このような左派の弱点を攻撃し、嘲笑うものでもあったのである。<br />
<br />
<br />
<br />
オタクとネット右翼が関係ないという主張の例証として、ネットでしばしば宮崎駿の名が挙げられているのを見るのだが、宮崎駿がオタク界にどのように受容されたかということも、慎重に考えなければいけないだろう。<br />
<br />
宮崎の芸術家としての部分が、後のオタクに多大な影響を与えたのとは対象的に、彼の左翼的、反戦的言動の部分は、オタク界ではだいたい嘲りを受けてきた。「作家としての宮崎駿の本質はしょせん軍事オタクのロリコンではないか、何をもって平和やリベラルな価値観を語るのか」という訳である。<br />
<br />
むろん宮崎自身はポーズで「左翼」やってたような類の昔のオタクとは訳が違うが、宮崎のフェティッシュな美術的才能と比較してしまえば、彼の政治的主張の方はやや普通、平凡であるという話になってしまうし、作品の上で重要な役割を果しているとはやはり言えない。<br />
<br />
宮崎がその晩節において、またオタクの右翼性が明確な形で表われてきたこの時代において、「風立ちぬ」のような作品を出してきたことは、オタクの限界を象徴する事だった。この作品は、結論だけ言えば、現実の戦争さえもオタクにとっては(この場合航空機、兵器に対する)フェティシズム探求の機会にすぎないという、オタクの理想をロマンチックに美化して歌い上げるものとなった。<br />
<br />
「我々の夢の王国だ」「地獄かと思いました」…映画の最後になって何か自責的なことを言っているのだが、これは「地獄変」の良秀が最後は首をくくって死ぬというのと同じ構造で、一方では、平均的な読者を道義的に安心させるための付け足しだが、一方では、地獄行きも辞さないほどの美的探求の「悪魔的魅力」を誇示する副次的効果を持つ。こういう部分から「戦時下での純真な技術者の苦悩」がテーマであると読んでしまうのも、また「左翼的誤読」の一つだろう。<br />
<br />
一般的に、エピローグ的な部分というのは、作品全体の美的構造に大きな変更を加えることなく付け替えることのできるものであり、そのため、本編とあまり関係ない政治的、道義的弁解を盛りつけるには便利な箇所なのである。そしてそれを「最後に言ってることが、つまり全体の結論だろう」と読んでしまうのも、よくあるパターンではある。<br />
<br />
結局、後続のオタク達が、宮崎駿の美術的部分のみを継承し、その政治的、社会的メッセージを拒絶したのは、彼等が作家を十分に理解しなかったからではなく、ある面で作家本人以上に、その作品の本質がどこにあるのかを明け透けに認めた結果だとも言えるのであった。<br />
<br />
[続く]<br />
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Unknownnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-874687343916343471.post-63505412771347482882015-03-12T00:43:00.001+09:002019-08-01T18:02:18.827+09:00理工系の保守主義について<blockquote class="tr_bq">
「数学のできない人間は、完全には人間ではない。」<br />
──ロバート・A・ハインライン「愛に時間を」</blockquote>
<br />
自然科学を重視することを「左派的属性」だとする考え方があり、当の左派のみならず、ある種の保守派からも(進歩主義批判のような否定的な意味で)言われることがある。しかし、これは俗説だろう。<br />
<br />
「知は力なり」とは、フランシス・ベーコンの思想とされるが、ベーコンはまさにこの意味において自然科学を重視し、伝統的な学問の実効性の乏しさを批判したのだった。一方、政治家としてのベーコンは、政治倫理のもつ実効性を疑い、しばしば権謀術数を肯定する面を持っていた。 自然科学それ自体には、政治的価値判断は含まれないとしても、生身の人間が、科学を自分の専門として選択するということは、近代科学の始まりの時から、すでにある種の政治的選択と関係していた。それは、オタク文化が、ときおり美化されるような、子供のように純粋な趣味や美の追求などではなく、ある種の反動と復讐でもあったことに似る。<br />
<br />
科学技術の知識は、軍事関係の知識と並んで「知は力なり」を最も具体的、即物的に実現するものと見なし得る。それゆえにこの両ジャンルは、専門知識を自慢とするオタクの文化が、ロマン主義的な力への憧れと結び着く部分となり、オタクの間で特に重視されるのだ。<br />
<br />
このような知的マッチョイズムは、ある面でやや幼稚に見えるし、オタク自身も人に言われる前に先手を打って、防御的に、自嘲しながら活動している。しかしまた、ここにはオタクの実も蓋もない本音がある。そしてネット、オタク界は、その本音をもっともらしく取り繕う理論の蓄積には事欠かない。<br />
<br />
自然科学と比べれば、文化系の学問の実効性や真実性にあいまいな所があるのは確かである。そのため、いささか偏狭な、オタク的理工系の秀才から見ると、文化系の学問などはしばしばフィクション同然に見える。彼らの見方では、科学の守備範囲から一歩出ると、そこから先は何も証明できない混沌になっているのである。<br />
<br />
もちろん実際には文化系の学問にも実効性を高め、真理に近づくために蓄積されてきた様々なルールがある。自然科学の外側もいきなり無秩序の絶壁になっているのではく、確実さについていろいろな段階があって、全体として人間の知的文化が成り立っているというのが、適切な見方であるのだが。<br />
<br />
ともあれ、自然科学の外に重要な真理はないとすれば、歴史や思想や芸術などは、官能と知的遊戯性にいかに奉仕するか、つまりネタとしてしか評価されないことになる。こういう点は、オタク文化の特徴の一つであり、オタク文化の持つ、理工系秀才たちの余技的な芸術運動としての側面である。オタクが大衆化した現在でもそれは継承されているのだ。<br />
<br />
<br />
自然科学から導かれる、没価値的、没倫理的な事実を種にして、通常の人間社会の道徳や常識が全く相対化された特異な世界を描き出すエンターテインメントの手法は、サイエンス・フィクションと呼ばれる。<br />
<br />
SFはオタク系フィクションでもよく用いられる要素で、SFファンは今日のオタクの源流の一つでもあるが、こういうSF的センスともいうべき形で、オタク界隈では科学的合理主義と、人文、社会科学的な価値や倫理への冷笑主義が同居する。 そこにある種の理工系の保守主義というものが成立する。<br />
<br />
<br />
「技術立国」という高度成長後の日本の自己規定、成功の物語は、保守派からも好まれるものであったが、それは単純なナショナリズムのみを理由とする訳ではないだろう。<br />
<br />
すなわち、戦後の日本の大衆が真に求めてきたものは、民主主義や国民主権などの絵に書いた餅ではなく、もっと具体的な豊かさであり、この豊かさをもたらしたのは、「進歩的文化人」ではなく、科学技術と、これを担う科学者、技術者ではないか。保守派が技術立国日本を称揚するときには、このような戦後日本の発展に対する評価が、暗に付随してきた。そして当の科学者、技術者層もまた、しばしばそのようなビジョンに基づいて、自分たちの仕事に誇りを見出したのであった。<br />
<br />
この理工系の保守主義に見られる、戦後の民主主義的改革や政治運動に対する低い評価にも関わらず、それが世の中を豊かにしようと真に考え、多くの貢献をしてきたことは事実である。その点で、これを新自由主義的傾向の強いオタク=ネット右翼運動と同列に論じることは、公平ではないだろう。<br />
<br />
それでもやはり、オタク文化は戦後日本の理工系保守主義の考え方を前提として成り立っている。両者の違いは、やはり今日のオタク文化が拠って立つテクノロジー、ネットの技術が、大衆を物質的に豊かにするというような性格を持っていないことに由来するのだろう。結果として、テクノクラシー的なエリート志向が、前面に出ている。オタク=ネット右翼運動は、現代日本のIT業界の技術者層の地位と利益とプライドを代弁してきた。<br />
<br />
技術者による効率的支配を目指すという20世紀のテクノクラシー運動は、米国では、民主的意思決定の元での行政の効率化など、その影響は穏当な範囲に留まったが、ドイツではナチズムに接近していった。政治面で遅れた国において、ときに技術者は、科学技術の発展により、西欧式の民主主義や人権思想を必要としない「もうひとつの近代」を実現できるという理想の担い手となる。オタク・ムーブメントはネット技術と結びつくことで、現代日本において、この理想を実現しようとするのだ。<br />
<br />
科学的合理性をもって近代社会の性質を代表させ、一方で倫理的規範を、権威主義的であり、反近代的、反民主主義的なものと見なす考え方がある。科学技術がもたらす物理的な恩恵は、素人にも解りやすいものであり、その意味では科学技術は大衆的であると言えなくもない。<br />
<br />
しかし、民主主義の必要性は、政治が倫理的なものであり、社会正義の実現を目的とするものだという立場からこそ生じる。倫理こそが、大衆的なものである。それは、一つには、倫理や道徳では「専門家」を育成する確固とした方法などあった試しがないという理由がある。しかしより本質的なのは、道義的判断は、自分の意思で行うのでなければ、そもそも道義的と言えないということだろう。世の中には、その道に優れているか劣っているかに関係なく、自分でやらなければ意味のない事があるのだ。逆に、もし政治が利害の調整や、衣食住の合理化、効率化のためのものに過ぎないとすれば、結局、全ての判断を専門家、プロに委ねるのが上策だという話になる。そしてそのような社会において、自分達が高く評価されることこそ、オタクとオタクの文化が孕んできた期待であったのだ。<br />
<br />
近年、福島第一原発の事故が日本にもたらした影響は深刻で多岐にわたるが、思想的な面では、事故とその後の一連の対応の中で、我が国の原子力技術を担うエリート達の、甚しい道義的退廃が露呈したことがあった。彼らはいわゆる「御用学者」と呼ばれ、批判されることになった。<br />
しかし、オタク界は、この論争を道義的問題とは捉えず、科学知識の多寡の問題、技術エリートのアイデンティティの問題に直ちにすりかえたのであった。原発事故後、「反・反原発」が速やかにオタク文化を構成するミームの一部となったことは、オタクの性質を知っている者にとっては、何ら驚くに値しない。しかし、今日の日本の科学界の退廃や不祥事は、結果として、真っ当な科学者や技術者が自分の仕事に打ちこめる環境自体も破壊するだろう。オタク界隈では、(しばしば自らが属する)日本のIT業界の技術者の待遇の悪さが話題になることも多い。そして少なからぬオタクがその原因を、科学技術を侮蔑する大衆が、理工系の人間が本来得るべき権益を不当に掠め取っていることに求める。かくして、日本の労働者は分断されていくのだが、技術者の不遇の本当の原因は、オタクが先導してきた政治への侮蔑にこそあるのではないか。<br />
<br />
しばしば保守主義者達は、科学技術を近代社会の本質とする見方を自ら煽っておいて、一方で私達が倫理的な価値、人間の目的となるものを求めるのであれば、それは前近代に、歴史ロマンの中にしかないのだと恫喝してくる。この種の脅しに対抗するためにも、人間の社会に一層高い水準の自由と公正を求めようとした、近代の倫理的、規範的性格を改めて強調することに意味がある。Unknownnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-874687343916343471.post-4744004694334488032014-04-25T22:56:00.000+09:002015-03-17T23:27:31.203+09:00オタク=ネット右翼運動が継承する国学の精神(2)今の日本で政治的発言をしていて、一度も中国人、朝鮮人「認定」されたことが無いとすれば、それは彼が政治の不正に抗議したことも、困窮するものに同情を示したこともない、ネット右翼かその追随者であることを意味するのであるから、逆に今日朝鮮人認定されることは、全く名誉なことであると言わなければならない。<br />
<br />
しかし、近年までオタクやネットの世界にあまり関心を持って来なかった者は、そもそもなぜそういうことになっているのか、異様でありまた唐突で訳が分からず、しばしば、そこに無知や狂信を見出し、あるいはごく一部の者の自演や扇動と見なして無理に納得しようとする。<br />
<br />
実際には「朝鮮人認定」の背景には、国学以来のそれなりに整備された世界観が存在しており、それゆえにネット右翼思想は、教養あるはずの者たちにも、強く広い希求力を持ってきたと言えるのだ。今日ではネット右翼は全く大衆化しているが、それも、まず知的青年の間でネット右翼思想が勝利を収めた結果である。<br />
<br />
<br />
思うに、国学が徳川幕府のイデオロギーたる朱子学を批判した民間の学問であるというだけで、そこにリベラルなものを見てしまう傾向には、80年代以降の日本社会が、オタク、ネット文化の右翼性を批判しきれず、後手にまわりつづけた事とパラレルなものがある。<br />
<br />
実際には江戸時代の民間思想史は、儒教の体制擁護的な部分ではなく、孟子から朱子へと至る、儒教の理性的、理想主義的側面をこそ専ら攻撃し、またこれを相対化する過程であった。全ての人間に天理が備わる──それはつまり、善悪の判断は、誰もが個人の資格で、いかなる権威にもよらずにそれを行い得るし、しなければならないという帰結を孕む──という理念を、理性の傲慢と見なして脱構築する過程の中から、我が国の国粋主義は生まれてくる。国学はその到達点である。<br />
<br />
こうしてまことに困難なことに、国学的素養(それはさまざまな形で現代の私達の意識の中にも入り込んでいるのであるが)から見ると、西洋近代の民主主義や人権思想なども、日本人が江戸時代にとっくに超克した「からごころ」──儒教に代表される中国的、朝鮮的精神の焼き直しに見えるのである。日本の右翼思想はその始まりからポスト・モダンであった。<br />
<br />
<br />
国学の「からごころ」批判の理論では、中国人、朝鮮人というものが、単に民族やナショナリティを表す言葉ではなく、意識的で明示的な規範に基づいて人や社会を変えていこうとする(国学の立場から言えば、傲慢で偽善的な)傾向全般を指す、一つの抽象的概念、思想的述語に拡張される。<br />
<br />
これは無論、現実の中国や韓国/朝鮮の事情とはまた異なる、二重の意味で勝手な理屈だが、こと日本側の視点に限れば、我が国における近代以前の普遍主義的思考は全て中国朝鮮経由で伝わったものだという事情がある。<br />
<br />
結局のところ、儒教から正義を、仏教から慈悲を学ぶまで、日本人はそういう概念の存在を自覚することは無かったのであって、それらはけっしてその辺から勝手に生じてきたのではない。我国の普遍的正義の伝統は、外来思想を理解し、吸収しようとしてきた変革の工夫と努力の中にしか見いだせない。それは、後発の文明地域にはありきたりの話で、日本に特殊な運命でもなんでもないのだが。<br />
<br />
ともあれ、それゆえに、日本の国家主義にとって、正義と慈悲は外国製の欺瞞であり、潜在的に「反日」なのである。生来自然に正直な日本人には堅苦しいメインカルチャー(それはつまり、人間とその社会がいかにあるべきか、という問いに正面から回答しようとする文化である)など要らない。サブカルチャーだけで十分である。つきつめてしまえば、それが日本の草の根右翼思想がずっと主張してきた事なのであった。その系譜を受けつぐ形で、オタクは現代日本の右傾化において重要な位置を占めることになったのだ。<br />
<br />
<br />
このような日本の保守/右翼思想の伝統を考えれば、現代の日本で保守自由主義のようなものをネット右翼の対抗として期待することは、かえって日本の実情に反する無いものねだりだと言わざるを得ない。日本における自由と公正は、左翼の意識的な変革のイニシアチブと、それに対する右派の譲歩という形でしか実現しえない。意識的な変革にともなう葛藤、居心地の悪さ、ぎこちなさ、不自然さ、うっとうしさ、乱暴さ、ある種の「醜さ」に耐えながらしか、達成されない。<br />
<br />
「美しい国」とはいかにも稚拙なスローガンだが、日本の保守思想の宿命を端的に表す言葉ではあるのだ。日本の良心的保守と言われる人々は、ネット右翼を批判するにあたり、しばしば「差別は醜い、かっこわるい」のような、審美的論点しか出せない。しかし、どちらが美しいかというレベルの争いでは、私達はすでにオタク=ネット右翼の前に敗北したのではないか。<br />
<br />
俗に「二次元」「アニメ絵」などと呼ばれるオタクアートは、かつては一般人から気持ち悪いとよく言われた。しかしこれは美の欠如を意味するのではない。真や善との交渉を断ったところで、ひたすら内向きに、官能への奉仕のために洗練を極めて行くオタクの美のあり方に、慣れない者達は強い抵抗を感じたのである。それは、「美しかない国」たることに居直る日本の国家主義の不気味さと軌を一にする。<br />
<br />
<br />
日本の中国人、朝鮮人差別の構造は、やはり生物学的な人種差別思想よりは、欧州のユダヤ人差別と比較して理解されるべきものである。欧州のロマン主義も、「ヘブライズム」の普遍主義的(根無し草的)性格を批判しつつ、これを現実のユダヤ人排撃と巧みに混交させることで、ユダヤ人差別を知識階級が真面目に取り組むに足る思想、芸術へと「高めて」いったのであった。<br />
<br />
戦後の日本においても、敗戦と占領の現実から目を背けるために、善悪の判断を保留し、もっぱら功利的観点から政治を評価しようとしがちだった日本社会に対して、政治の正しさの観点から問題提起する役目を負ったのはしばしば中国、韓国であった。しかしオタク世代にはそれが正しい正しくない以前に、ひどく遅れたものに見えるのである。中国人、朝鮮人蔑視と、普遍主義、理想主義への憎悪は、現代のオタク、ネット文化においても高度に融合している。ネット右翼の韓国/朝鮮人認定を「国籍透視能力」などといって笑うが、向こうも実際の国籍など必ずしも気にしてはいない。現代日本の政治的言語において、権利を声高に叫び、政治へと「逃避」する人間は、国学の伝統を継承するかたちで、象徴的また内面的な意味で朝鮮人と呼ばれるのである。<br />
<br />
このような意味で、韓国/朝鮮人差別は、単なる偏見や憎悪にとどまらず、オタク・ネット世代の日本人にとっての、世界を認識する基本的方法であり、総合的な人生観であり、知的人間としてのアイデンティティであり、誇りとなるのである。このような世界観、拡張された「朝鮮人」概念が暗黙の内に共有されているがゆえに、現代日本の議論において、朝鮮人認定が強い力を持つ。それは暗黙の了解ゆえに、多くは右翼思想としての自覚すら伴わない。<br />
<br />
そしてその中で、オタク文化は、アニメ、ゲームなどの特に虚構性の高い表現に遊ぶことを通じて、政治=社会正義によって自らを底上げしようとする醜いからごころ、我々の中の「内なる朝鮮人」を排撃する芸術運動として、自らの意義を再確認することになった。今日オタク作品を無批判に楽しむとき、人は意識的にせよ無意識的にせよ、このような芸術観に承認を与えることになるのだ。<br />
<br />
現代日本において道義的理性の復権を企図するときに、オタク文化との対決が避けて通れない理由が、そこにあるのだ。Unknownnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-874687343916343471.post-85819076948616884392013-10-04T22:00:00.000+09:002013-12-14T01:28:30.958+09:00オタク=ネット右翼運動が継承する国学の精神(1)<br />
<blockquote class="tr_bq">
スブやんのように直線的にエロスの申し子になることは、私自身いさぎよしとしない。なぜなら、それをのぞむ以前に私はプロレタリアートの子だからである。<br />
—— 斎藤龍鳳「ボクの『エロ事師たち』論=私はなぜ一夫一妻に立ちもどったか」</blockquote>
<br />
本居宣長の源氏物語論には共感出来るけど、直日霊とかの国粋主義になるとちょっと、というのは、かつてはよくある感想であったが、両者はやはり一直線に通じたものであると考える。<br />
<br />
「もののあはれ」を、我や理念を立てず、ひたすら目の前の対象に寄り添い、これと一体となり、これを味わい尽くす態度とするならば、古事記伝は、この「もののあわれ」を古事記のテキストに対して徹底的に適用する試み——それは手法の上では、近代の実証的、文献学的手法に似ていなくもない——であり、その過程において、儒教の説く道徳的、条件的忠誠に対して、無条件的な尊王こそが、究極の「もののあはれ」であるというビジョンが導かれていく。<br />
<br />
すなわち、天皇が善を行う時は、共に善を行い、その喜びを共に味わい尽くし、天皇が悪を行うときは、共に悪を行い、その苦しみ、悲しみをも共に味わい尽くすのである。こういう善悪を超越した、官能的な、エロティックな国体との合一こそが、人間が到達し得る最高の、また最も純粋な境地として示される。それはいわば政治の源氏物語化であり、国家のポルノグラフィ化である。かくして、古事記伝以降の日本では、ポルノグラフィはしばしば右翼の担当領域なのである。<br />
<br />
しかし、「もののあはれ」は、美化された皇朝国家に対してだけではなく、弱い者、貧しい者にも向けうるものではないか? 宣長は、秘本玉くしげ等では、困窮する農民等に同情的な見解を述べる。しかし、こういう具体的政策提言の部分は、熊澤蕃山以来の、江戸時代の理性的儒教知識人の経世論を踏襲しつつ、和文でやわらかく表現し直したものでしかないとも言える。紀州藩主に提出した現実の政治問題の議論ゆえにか、国学思想の積極的、独自的展開はここでは慎重におさえられているのである。<br />
<br />
むしろ理論的展開としては、「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは」という徒然草の美意識を、上辺をつくろう偽善的態度として批判した宣長は、富貴に憧れるのが人間のまごころなのに、ことさらに貧しく卑しい者に感情移入するのは、自分を慈悲深く見せようとする歪曲した精神であるとも、状況によっては言えたはずである。<br />
<br />
実に、「あはれ」と「慈悲」は別のものであり、後者は心情ではなく、一種の規範としての性格をもつ。人間にはあはれ(文学的感動)が必要だが、慈悲は要らない。そういう思考を、国学は内包する。<br />
<br />
私達は国学の文学的ルーツに柔和さとか優しさを読み取ってしまいがちである。近代以降の日本で、権力と結びついた国学、神道思想が示した残虐性を私達は知っているが、これについて、平田篤胤以降の、国学の政治「運動」化に、その責任を負わせようとする議論は多いのである。<br />
<br />
しかし近代国学のファナティックな性質は、平田以前の、富裕な町人層の文芸趣味に基づく、机上の知的冒険としての国学にこそ強く由来するのではないか。<br />
<br />
江戸時代の過大評価は、近年の日本の右傾化が生み出した傾向の一つであるが、とくに町人文学の、メッセージ性を持たずひたすら花鳥風月女色を愛でる、遊興的、審美的性格は、オタクが自らのルーツの一つとしてしばしば称揚する。<br />
<br />
だが、町人文化の繁栄は、武士階級に政治的矛盾を、農民に経済的矛盾を押し付けることで成り立っているという面を、私達は軽視する訳にはいかない。しかもそれは町人が自ら勝ち取ったというよりは、江戸時代の制度のなかにたまたま生じた旨みのあるポジションに過ぎない。それゆえに、彼らは、自分達の力に見合った政治的権利を得ようなどとは夢にも思わず、むしろ政治のような無粋なものを「免除」されているがゆえに、自分達こそがある種の文化的エリートであると考えたのであった。国学思想はそういった富裕な町人層のイデオロギーとしての性格をもつ。<br />
<br />
町人文化はしばしば当局から規制を受けたが、こうしたことは町人文化が反体制的性格を持っていたことを何ら意味しない。彼らは平身低頭して規制をやり過ごすことを常とした。そして江戸時代の体制、身分制度が崩壊する時には、町人文化は自由になるのではなく、かえってその基盤を失い、いったん役目を終えることになったのである。このことは保守勢力からしばしば表現規制の圧力を加えられながらも、基本的にはこれを支持するオタクの立場を理解する上で示唆的である。<br />
<br />
そもそも国学ムーブメントが自分達の拠り所のひとつとした平安期の和歌復興運動、仮名文学運動もまた、権力エリートの地位から疎外され、そのおこぼれにあずかるばかりの中級以下の文化エリート、テクノクラート貴族の「逆襲」ではなかったか。彼らはまさに文芸が政治よりも高級で人間的であるという思想によって反撃した。この思想は後世、公家社会を征服するに至る。よい貴族の条件は、よい政治を行う事ではなく、よい文化人である事になったのである。これは京都の政治的影響力低下の原因か、あるいは結果か、難しい所ではある、あるいは両方か。ともあれ中流貴族たちは一矢報いたことになるが、このことは京都の政治をいっそう無責任にしただろう。文化エリートたちはしばしば権力エリート以上に残酷である。<br />
<br />
またこの国学の文芸的「柔和さ」という問題を逆の方向から見ると、記紀神話を全て文字通りに事実として受け止める国学の態度には、私達はある種の「過剰な真面目さ」を読みとってしまう場合がある。だがこういう原理主義は、古人の言葉をケースに入れて飾り愛玩する趣味的な態度が、背景に潜んでいるからこそ可能となる。一方古い思想を現代人が真剣に学び実践する価値のあるものとして、これと真面目に対峙する時には、私達はかえって新しい解釈を加えていく必要に迫られるのである。<br />
<br />
オタク世代の人間は、社会正義はフィクションの中にしか存在しない、幼稚な空想であり、冷静に必要悪を受け入れることが知的で現実的なことであると常に聞かされて育った。マンガやアニメから、子供じみた勧善懲悪の要素を排除し、大人の鑑賞に耐えるものに変えた、というのがオタク界が自らの功績としてしばしば語るところであった。<br />
<br />
だが悪や狂気や冷酷を衒い、弄ぶことほどロマンチックで、「あはれ」なことはない。それは文学の中でのみ許される。いっぽう現実の生活は、私達が互いに協力しあわないと生きていけないこと、そのために信頼と慈悲と公正なルールが求められていることを、否応もなく思い出させるだろう。正義はある面で、退屈なまでに現実的な物である。社会正義は決して、単なる生活のための方便ではないが、その存在を私達が自覚するのは、おもに現実においてであり、フィクションの中ではない。<br />
<br />
平田派国学運動は、富裕な農民層への普及を進めていくなかで、限界はあったが、人民の救済、「世直し」という方向性を帯びていかざるを得なかったのである。農村社会は、都会の文人達よりも切実に、政治の公正さを求めていたと見るべきである。しかし口やかましい平田派は明治政府の文教政策から放逐され、体制順応的で文芸的な国学は生き続ける。<br />
<br />
柳田国男の日本民俗学がしばしば国学の継承者のように言われるが、その、日本人もまた、ある種の「よい社会」についての観念を持ち、これに近づこうという意識的な工夫を重ねてきたという民衆観、またその基盤の上に日本なりの民主主義を確立しうると考えたことは、その真偽はともかく、近世の国学からは遠いもののように思われる。しかしそれも、柳田が、文学者であるよりは、むしろ農政家、社会改良家であったという点に結局は帰着するのではないか。<br />
<br />
一方、近世の文芸的な国学のセンスは、現代ではオタク=ネット右翼の中にこそ、強く受け継がれているのである。オタクが自分達こそが日本の審美的、官能的芸術の継承者であると自讃するのは、実際、最悪の意味においても正しい。オタク=ネット右翼ムーブメントは私達の時代の精神を代表すると同時に、日本の文化エリートの知的伝統の現代的表現である。<br />
<br />
今一度、「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは」という宣長により一蹴された徒然草の美意識に立ちかえってみると、私達が萎める花、欠けたる月のごとき不完全なものに時に共感してしまうのは、結局、私達自信もまた、そのような不完全な存在でしかありえないという現実での経験に由来することである。そういう意味では、それは人間の「自然な」美意識ではなく、後天的に学んだ、不自然なものかもしれない。しかしそれを、同病相憐む式の欺瞞として笑えるのは、本当はよほど恵まれた人間だけなのだ。持たざる者には持たざる者の美意識が必要である。ここにオタクの、かっこいいもの、かわいいもの、きもちいいものを並列に収集することを至上とするフェティッシュな芸術観へのカウンターがあり、美が慈悲や道義的理性と共存しうる可能性があるのである。Unknownnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-874687343916343471.post-2888750128366196792013-07-27T00:17:00.000+09:002014-06-20T00:13:26.089+09:00ロマン主義右翼についてもう少しカール・シュミットは政治的ロマン主義の本質を、「主観的機会原因論」と捉えたのであるが、オタク文化を最近に経験している我々にとっては、もっとわかりやすい表現があるだろう。それは、「すべてはネタでしかない」という世界観である。<br />
<br />
ネタではない「真性」右翼として、政治的ロマン主義に批判的だったシュミットが、なぜナチスのような、あからさまにロマンチックなものに加担することになったか。<br />
<br />
この問題は、ひとつには、やはり私から見ると、近代の保守、右翼思想は、本人たちがどう思おうとも根がロマン主義的であり、ナチス的な底無しの悪乗りを拒絶しきれないという事になるが、いま一つは、ナチスはネタとして盛り上がるだけではなく、実際に行動し、権力を掌握したではないか、それは受動的で無責任なロマン主義的センスで出来ることだろうか、という見方が影響しているように思われる。<br />
<br />
そうして、少なくとも、ナチスの指導者達は、ロマン主義的心情を手段として利用しただけで、その背後には、真剣な、確固たる理念があったはずである、また、その点で、彼らを利用し、あるいは操縦することが出来ると考えてしまう。<br />
<br />
だが、やはりナチはそのトップにしてからが、冷笑的、諧謔的である。ヒトラーは著作も演説も全てがあまりに演技的で、何が本心なのか結局最後まで分からないところがある。<br />
<br />
ナチズムの哲学は突き詰めると、優秀なアーリア人種が好き放題やらせてもらうぜ、ということしかないが、こういうのは「真剣な」な思想とはいえない。真剣であるとは、どんな形であれ、他者と共存していくためのビジョンを提示する必要に迫られているということである。<br />
<br />
実に、人間の冷笑と諧謔の力を侮ってはならないのであって、それは国家も幾万の生命も平然と「ネタ」として食い潰す実績をもっているのである。<br />
<br />
<br />
オタク=ネット右翼の特徴の一つは、まさに誰もが「自分はネタでやってるだけだ」と思っているという点にある。だいたい何かを本気で信じることはオタクが特に恥とするところだ。彼らは「ネトウヨなど存在しない、左翼の妄想だ」としばしば言っているが、本気でやってる人間はほとんどいないという意味では、まあそうなるのだ。<br />
<br />
しかしここは「狂人の真似とて大路を走らば即ち狂人なり」というのが真理である。狂人をまねるのが楽しくて仕方がないというのが、まさに狂気なのだ。この、誰が一番狂人のマネが上手いかを競い合い、徒党を組んで大路を走る運動のことを、私達はネット右翼と呼ぶ。<br />
<br />
ネット右翼のこういう性格ゆえに、相対主義的教養を基礎に持つ現代日本の知識階級は、なかなか彼らを正面からは批判し得ない。ネット右翼が少々度が過ぎるとしても、彼らが本気でないというその一点で、サヨクよりはマシである。ネット右翼を嫌うあまり、正義を盲信するサヨクに逆行してはならない。私達はネット右翼を越えて、その先にいく…こういうのは、日本の知識階級の意見の、ひとつの類型であろう。しかしこれは、無軌道に大路を走る大胆さがないという点を除けば、結局ネット右翼と大差なく、大きく見れば、オタク=ネット右翼的潮流を構成する部分でしかない。<br />
<br />
逆に、知識人、教養人の世間で認められたいというような、つまらない野心を持っていない、純然たる無学者のほうが、ネット右翼をまともに批判しやすい立場にあるとも言える。ネット右翼に抵抗するには、ある種の愚直さが必要なのである。<br />
<br />
しかし一方、私達が政治的合意を形成する過程で、知識階級の果たす役割というものを軽視することは出来ない。たとえ今日ネット右翼に反感を持つ者が、見かけよりも多くいるとしても、言論を担当する知識層が全般的に親ネトウヨであれば、そういう人々の反感が言葉にされ、あるいは代弁者を見出す道は封じられる。昔も差別主義者はいたし、権力の横暴、それを笠に着る者達もあった。今の日本の「右傾化」の特質は、それらに対抗する言論が形成できない点にこそある。<br />
<br />
今日、ネット右翼が流布する様々なデマや虚偽や暴論に、真面目に反論し、対抗しようとする者達も、多くはないにせよ確かに存在する。しかし、デマを伝播する者達、虚偽を信じる(ふりをする)者達が、それが真実であるかを気にしているかといえば、本当はわりとどうでもいいと思っている。全てはネタとして面白いかどうかだ。<br />
<br />
小林よしのりが「歴史はフィクションでしかない」と言ったように、歴史修正主義の本質も、史的事実に対するニヒリズムにある。歴史修正主義者も無論、史実について議論はするが、それは彼らにとっては、ある種の知恵比べのゲームに過ぎない。<br />
<br />
真に強く知的な人間は、虚偽を虚偽のまま貫き通し、楽しむものである。強者を妬む卑劣な弱者が、真実にすがり、自己を正当化しようとする…そういうロマン主義的ニヒリズムが日本の知的人士の暗黙の了解となっている中では、左派が個別の事実問題で右翼と真剣に議論してこれを否定しても、そのことによってかえって軽蔑され、政治的にはますます孤立していくことにもなるのであった。<br />
<br />
オタクに対する一般人の素朴な批判として、「空想と現実の区別がついてない」という言葉が昔からある。しかし当たり前だが、アニメやゲームに没頭する人間に「それは現実か?」と聞けば100人が100人、違うと答える。知的認識としては、区別は完全についているのだ。だからオタクはこの種の批判は不当な言いがかりと見なしている。虚偽と完全に知りつつ、それを弄ぶからこそ、オタクにとっての知的ポーズになる。だがこの批判は、そういったオタクの価値観自体に対する直感的な反発をも含むものだと、考えるべきなのだ。<br />
<br />
ネット右翼を批判しようとする者は、それを支えている「虚偽こそが知的、現実主義的なものである」というオタク的な価値観をも批判の対象として視野に入れ、対立軸を作り出すべきである。そうしなければ、個別の事実に関して右翼と論争を重ねても、それは十分な効果を持てないし、どちらの方が賢いか、という知恵比べレベルに議論が矮小化されてしまいがちにもなる。Unknownnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-874687343916343471.post-41753222361830125522013-05-23T00:07:00.000+09:002014-06-20T00:12:18.980+09:00一部でネットが市民的自由や資本主義超克を推進するものと見なされる奇怪(2)<br />
ネットではコンテンツは無料であるのが当然という意識が強く、また著作権にルーズな所がある。作品を相互に引用しあい、改変、パロディ化するのはオタクが好む手法でもあり、ネットのこういう部分はオタク文化との親和性も高い。<br />
<br />
こういうネットの無料/共有文化を、ある種の共産主義的なもの、資本主義的生産活動を超えていく動きとして捉える論調というものが、たまにある訳である。<br />
<br />
しかし実際には私達は、通信量と、商品の値段に上乗せされた広告費という形でネットの世界に金を落としている。だからネットの無料文化は、かつては実際に何かを作成している人が受けとった筈の取り分が、インフラストラクチャーや、広告収入が見こめる集客力などの「場所」的な権益を有する者に移るしくみに過ぎない。かかる地主丸儲け的なシステムを、資本主義の超克と見做すのは適切ではない。資本主義どころか、下手をすると近代以前である。<br />
<br />
ネットは管理と効率化のシステム、管理する側がコストを減らしてさらに利益を上げるためのツールである。そこには、労働者の生産性を直接向上させるような性質は実のところ希薄である。ネットは我々の時代を代表するテクノロジーであるが、そこには20世紀的なテクノロジーが持っていたような、その発展が一般大衆を豊かにするといった性格はないし、その豊かさが、大衆の政治的解放につながるという展望も持てない。現実のネットに常につきまとうのは貧困のイメージである。<br />
<br />
一方、オタク界隈にも一定の影響力のある、いわゆる「嫌儲」運動などを、ネットの収奪的構造を批判するものとして理解するのも、なかなか難しいように思う。「嫌儲」の矛先が、広告規制のあり方とか、ネットの構造そのものに向くことはあまりない。「権威ある」大企業などが儲けるのは良いが、我々と「同レベルの」存在であるはずのアフェリエイターなどは「誰の許しを得て」儲けているのか、というネットにおける職業身分意識が、やはりその主題である。<br />
<br />
<span style="font-size: x-small;">余談ながら、2ちゃんねるのまとめサイトのようなものが、ネット右翼ムーブメントを扇動する大きな役割を果たしている等の意見は、事実と異なるように思われる。そもそも2ch自体に、リベラルな意見は無視できる程度しか存在していない。もちろん、今日では、既存の保守、右翼系のメディアや政党など様々な勢力が、オタク=ネット右翼ムーブメントを利用しようと積極的に介入してきているし、オタク界隈もその政治面での指導を受け入れている面がある。しかしこれらは結局、後から便乗してきたものであり、オタク=ネット右翼運動自体は草の根的な性質を持つ。そこにむしろ問題の深刻さがあるのである。</span><br />
<br />
今日の新自由主義的雰囲気においては、経済活動の自由といえば、金融市場の自由である。投資家の独創的な投資判断が、経済を発展させる原動力である、それに比較すれば、古典的な生産者や消費者の「自由な」経済活動などは、二次的な影響力しか持たない、そういう今日風の経済観のもとでは、自由は結局一部の人間にしかあてはまらないものである。そのため、政治的実践においては、自由主義と上記のような身分意識が普通に共存し得る。共存どころか、今日の日本の新自由主義的、反福祉国家的政策に対する国民的な支持は、富者を崇拝する一方で、同格と見なしていた者が勝手に豊かになろうとする事は許さないという、現代的な身分意識をもっぱらその心情的基盤にしていると言えるだろう。こういう意識は、ネットの経済構造ともよく調和するものである。<br />
<br />
いわゆるハッカー文化というものも、情報技術が本来、国家や大企業のためのものであるという現実を踏まえて、あえてそこに、ユーザー個人の生産性、創造性を高めるためのコンピューティングという理想をぶつけて揺さ振りをかける所に意義があるのである(思うに、こういう敵の道具を使って敵を攪乱するという、一種の奇策が主体であるところに、ハッカー運動の限界もまたあるのだが…)。一方、我が国の技術系オタク文化には、こういう対立をふくむ部分がない。ときには、ハッカー風の自由があたかもネットに本来的に備わっているかのように偽りながら、ネット的なものと無条件に慣れ合っていくのであった。<br />
<br />
オタクは元来、消費活動、趣味の活動である。今日のオタク界では作品を送り出す側もだいたいオタクであるが、職業的なオタクは全体から見れば少数である。そんな中で、ネット・IT業界は、オタクと親和性の高い産業、職種として、オタクムーブメントに一定の生産者的、経済的基盤をも与える。オタク文化を社会的ポジションの面から見ると、中産階級を必要とせず、少数のエリートが大衆を直接管理するというネット時代の身分、格付け意識において、支配する側の人間でありたいとする者の文化という部分を持つだろう。オタクの用語で言うところの「情強」というものであろうか。<br />
<br />
今日のネットの影響力を考えれば、持たざる者の側に立って政治を考える者も、ネットで活動していくことは無論必要である。しかしそれは、敵の土俵で戦わざるを得ないという困難な状況を表わすものでしかない。ゆえに、ネット内部で活動すること自体が目的化しないよう気をつけること、また、ネットの外に足場を持つことなどか、重要になってくると思われる。Unknownnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-874687343916343471.post-67150576855018406072013-05-17T20:57:00.000+09:002014-06-20T00:09:24.754+09:00一部でネットが市民的自由や資本主義超克を推進するものと見なされる奇怪(1)<br />
オタク活動には知識をひけらかし合う同類が必要だと以前にも言ったが、昔は、オタクにとってまずこの仲間を探すということが、ことにマニアックなジャンルになるほど容易でなく、彼らにとって常に大きな問題であった。オタクには社交性に乏しいというイメージがあるが、話が通じる相手を得たいという強い欲求のために、あえて何のつても無しに未知の領域に乗り出し、新しい人間関係を構築していこうとするケースも見られた。<br />
<br />
しかしネットが普及するに及んで、それも過去の話になった。ネットではどんな趣味の同類でも時間や場所を選ばず得られる。情報技術がそもそもオタク関連ジャンルの一部であるということもあり、オタクが最もオタクらしく振る舞える場所として、ネット上のコミュニティが今日オタク文化の本体を形成するようになったのは、全く必然的な事であったのだ。<br />
<br />
そしてまた、日本のネット文化自体がオタク的気質を持つ者達の手によって発展してきたとも言える。日本語圏のネットは基本的にオタクのテリトリーである。<br />
<br />
今日、日本のアニメやゲームは、もっぱらネットのオタクコミュニティにどれだけネタを提供できたかで、その価値が決まってくる。今や私達はオタク文化を、アニメやゲームをダシにして、2ちゃんねるやニコニコ動画で形成した「了解」に、直接的あるいは間接的に追従することを楽しむ文化的運動と定義しても、だいたい問題はない。もし未来の研究者が現代日本のオタク作品を研究することになったとしたら、同時期のネットの膨大なログを精査しなければ、作品が持っていた意味を理解できないという事になるだろう。また逆に、アニメやゲーム、漫画でも、ネットから切りはなして鑑賞する余地の多い作品は、その分だけ「オタク度」が低いと考えることもできるのである。実際そういう作品は、オタクの思想からすると「作家のひとりよがり」という話になって、攻撃を受けやすいのであるが。<br />
<br />
人と共通の話題を持とうとすることはオタクに限っての事ではないが、一般人の場合は「人」の方が目的であるのに対して、オタクの場合は、共有される知識が目的であり、相手は手段に過ぎない。こういう他者の個別の事情への無関心をもってオタクは自らを個人主義者だと考えるのであるが、これは、他者の個別性への敬意に基くところの、近代社会が目指した個人の尊重とはやはり別の物だ。自己をアピールしようとすることはオタクの間では何より嫌われる。<br />
<br />
またこういった現代のオタク文化の構造ゆえに、私達は、ネットのオタク系コミュニティの大勢をもって、「オタクの総意」と見なすことができるのである。そしてオタク的なものが日本語による創作活動の主流を占める現在、それは実質的に日本の知的青年層の総意でもあるのだ。<br />
<br />
<br />
このようにオタク文化にとってネットが本質的に不可欠のものであれば、オタクがネットにおける「言論の自由」を一応支持する傾向にあることに不思議はない。<br />
<br />
しかし自分の知識を自慢し合うために群れているようなオタクのコミュニティでは、政治的自由を獲得するために必要な組織化、小異を越えた連帯というものが、いかにも成立しにくいのである。<br />
<br />
今日、ネットで直接、自分の意見を発表すること自体は実に簡単になったので、この点をもってネットが市民的自由のためのツールであるかのように言われるのだろう。しかし烏合の衆では、本当に力を持っている人間からは、単に無視されるだけであるし、分断させることも容易である。こういう意味での言論の自由にできることは、自分より弱い立場の者に、よってたかって私刑を加えることぐらいなのだった。<br />
<br />
実際には、ネット技術は、歴史的経緯から言っても、管理と効率化のためのテクノロジーである。それは人々をバラバラに分断したまま管理することを可能にする。<br />
<br />
かつて国が人々を管理するとは、人々が所属する様々な、あるいは職業的な、あるいは地域的な組織や集団を管理することであった。こういった中間的な組織は、一面では支配の道具であるが、一面では、私達がその意見を一本化して上の者たちにねじ込む経路でもありえた。<br />
<br />
私達は結束し、リーダーを立て、権力との間に何らかの点で力の拮抗を作り出した時に初めて、強者から多少の公正な取り扱いを引き出すこともできる。政治的自由は、結局そういう緊張関係の中にしかない。だか日本のネット技術は、しばしはそういう面倒な組織やしがらみから自由にしてやるという触れ込みつきで、私達のもとにやって来たのであった。<br />
<br />
今、ネットの「言論の自由」の下にありながら、かえって日本の一般国民の政治的技術は、かつてないほどに低下していると言わざるを得ない。ネットで自由という語が使われるとき、多くの場合、無力の別名である。強者にとっては無害であるから、放置されているだけである。Unknownnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-874687343916343471.post-8742540272547387262013-03-18T19:51:00.000+09:002013-03-24T14:12:19.866+09:00飢えない限り一般人は政治に関心を持たないし、持つべきではないというサブカル保守の教条<br />
革命とか蜂起とか一揆というものに、飢えた民衆が自暴自棄となって起こすものというイメージを持つ向きがある。<br />
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これは裏を返せば、とりあえず食うものがある私達は、社会変革、世直しに関心を持たないのは当然で、関心を持たなければならないとする左翼、市民運動家の態度は欺瞞であるという考え方になる。またそれは、政治に関心を持たず、趣味に沈溺する生き方を肯定するものとして、サブカル保守と、その先鋭化された形態であるオタク=ネット右翼の思想を支える政治運動観、大衆観なのであった。<br />
<br />
政治に関心を持たない「素朴な大衆」のようなものを設定しておいて、自らはその擁護者、代弁者であると位置付けるのは、ロマン主義右翼の一つのパターンである。欧州のロマン主義がカトリック教会とその信徒に求めたイメージがそうであったし、またわが国の国学運動が、「からごころ」に汚染される以前の純粋無垢な日本人というものを想定するといったように。<br />
<br />
こういった関係で、サブカル保守、オタク=ネット右翼は、彼等の自己理解では多くの場合、いわゆるノンポリである。傍から見れば、ネット右翼などは甚だ政治的であるが、それは彼等の立場では、左翼、プロ市民から、政治に走らない「まともな人々」を防衛する為の止むを得ない政治活動ゆえに、許容されるのである。権利を主張する奴等がいるから、この「無垢の人々」の利益が相対的に侵害されるという訳である。こういった、彼らの戦闘的ノンポリとも言うべき自己規定が、我々が彼らを右翼だと非難しても、先方は一向に意に介さず、効果がない理由でもある。一般にロマン主義が、大衆的、反体制的であると自己を偽装し、あるいは実際に自らそう信じこむのは、こういった文脈においてである。<br />
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この「教条」が持つ一つの問題としては、こういったサブカル保守的な考え方が広く支持されたのは、かつての日本の豊かさがあって可能な事だったという点があるだろう。かつて地味で暗いと謗られたオタク文化も、一面ではまたバブル日本の落し子なのである。<br />
しかし、今日わが国の指導層は、すべての人が趣味に金をかけられるような社会構造を維持しようという意図を、明らかに持っていない。我々の知的代表者達は、かかる中流的豊かさを「既得権益」と呼び、これを排除することが現在の日本に必要であると力説する。この流れに対抗し得る政治的勢力は、現状、存在しない。<br />
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オタク文化は、世の中をネタとして見る余裕のある者が、その余裕のない者を見下して笑うという面を有している。困窮している人間は、何事にも真剣にならざるを得ず、またなりふり構っていられないが、その真剣さが、オタクには愚かさにしか見えない。オタク文化の中から、困窮している人間への同情や共感という要素を引き出すことは難しいことである。<br />
<br />
しかし実際には、中流層の解体は、オタクの大衆文化的な面での経済的基盤を掘り崩すことでもある。今後の日本で、こういったオタクのセンスに共感できる人間は、やはり、ある程度減りはするだろう。<br />
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だが一方で、貧しさとは、結局のところ、相対的な話でしかない。貧困のみを問題にするなら、しばしばあることだが、近代以前の貧しさを引き合いに出されれば、黙るしかないということになってしまう。それこそ、実際に餓えて死にかかってから来いという訳である。<br />
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そうしてまた、一部左派の間でも、国民が政治的に立ちあがる時があるとすれば、いまよりももっと絶対的な、多くの人間の生死に関るような困窮が出現した時ではないかと、ある種の屈折した希望が、口にされる。それは、サブカル、オタク的大衆観の裏返しなのであった。<br />
<br />
しかし実際には、本当に困窮した民衆は、もう政治活動など出来無いのである。<br />
今の日本でも、経済的困窮につれて、いよいよ強い者に媚びて生き延びるしかない、という無力感が蔓延していくばかりではないか。貧窮に政治的ムーブメントの契機を見いだそうとする発想には、そもそも限界がある。<br />
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およそ人が政治的に立ち上がるには、連帯することが必要なのであって、自暴自棄では連帯は出来ない。西欧の市民革命にしても、我が国の自由民権運動などにしても、全体として見れば、人々のくらしは少しづつだが向上しつつある時代のことであった。民衆には、自分達が世の中を支えているという自信と活力があった。だがそれに反して、制度上はろくに政治的権利が与えられていない、そういう不公正にこそ、問題の本質があった。困窮は、きっかけに過ぎない。<br />
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一般的に考えても、どんなに困窮したとして、皆が困窮しているなら、無い物を分けあって耐え忍ぶより他はない。不正への怒りが無ければ、政治的運動はありえない。そして不正に怒るには、正しい政治というものがあり得るというアイデアが、根底になければならない。<br />
かつて庶民は日常生活に追われる一方で、自分達がしばしば不正な取り扱いを受けているゆえに、正義に素朴な敏感さを持っていた。それはサブカル=オタク的心性が意識的に無視しようとしてきた、民衆とその政治的活動の一面なのである。<br />
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今の日本で政治運動を志す者の多くが、イデオロギー(=政治の「正しさ」)についての議論こそが、一般の人々を政治から遠ざけるのであると言い、ひたすら利益を守り、困窮を避けることを中心に訴えていくべきであると言う。<br />
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だが、利益への誘導と困窮の忌避では、むしろ一般人を連帯させ、政治的な力に結びつけることなど出来無いのだ。<br />
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今、貧困ゆえに教育を受けることを諦める者がある。金銭的理由で医者にかかることをひたすら恐れる者がある。生活保護の水際作戦で追い返された者が餓死し、原発事故で故郷を失なった者が流浪する。しかしこれがいかに残酷であろうと、結局は一部の人間の苦しみに過ぎないという事になる。利益をもって訴えるなら、まさに自分の利益を守るために、これらの人々を見なかったことにしよう、そう決断する者をどうして咎めることができるか。<br />
<br />
もちろん、こういった事はみな、今や明日は我が身とも知れない話であるが、既に経験した者とそうでない者の間には、大きな溝があると言わなければならない。その溝を乗り越えられるのは、不正への怒りであり、正しさへの期待以外にありえないではないか。<br />
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加えて、先にも言えるように、今日のオタク=ネット右翼の文化的リーダーシップの元では、困窮を訴えることは、さらなる嘲りを受けるだけであり、同情する者は少ない。しかしだからこそ、今、困窮する人々を救おうとする者は、不正への怒りをこそ、人々に思い出さしめなければならない筈である。Unknownnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-874687343916343471.post-58535153923138563202012-12-13T23:46:00.000+09:002012-12-15T21:22:10.565+09:00形而上学、および詩人追放論(2)<br />
かくして、プラトンの「国家」は、(道義的)理性によって社会を意識的に変革していこうという、広い意味での左翼的プログラムの、西洋における始まりを告げる。<br />
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現代の日本では、左翼的な理想主義は、「近代人の浅知恵の産物」とレッテルを貼られ、歴史的スケールにおいても矮小化されている。近代的、左翼的なるものが、むしろ人類の歴史の中で無視することのできない古く大きい一つの潮流の、最新の展開であるという視点を持つことは、これに抵抗する上でひとつの意味がある。<br />
<br />
しかしそうすると、「国家」で述べられている理想国は現代人から見れば、エリート独裁国家で、詩人が追放の憂き目にあう表現規制国家ではないのか、(この国家にはオタクにも居場所はないように思える)これこそ、理想主義者の残虐性を象徴する話ではないか、オタク=ネット右翼ならば、ただちにそう言うはずである。<br />
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プラトン自身も言うように、この理想国はただちに実現を企図するような性格のものではないのであり、理想国から詩人が追放されるとは、理想的状態においては、人間の社会は詩を必要としなくなるだろう、というような意味に解されるのであるが、この種の理念的思考というものは、日本では例によってあまり理解されていない。<br />
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我々の世代は常に、直接的、あるいは間接的な形で、高遠で空想的な理想を引き下げれば、現実がこれに追い付けるようになり、世の中に実際上の利益をもたらすと言い聞かされてきた。あるいは、理念というものを捨て去ることで、我々は他人に対して寛容になることができ、自由な社会が実現すると繰り返し言われてきた。さらに、博愛や平和主義のような、空虚な口先だけの道徳への逃避を止めることで、身近な人間に、ごまかしのきかない具体的な愛情を注ぐことができるようになるとも教えられてきた。これらは実際、私達の世代、私達の時代を代表する人々が、全力で追求してきた精神であり、オタク文化はこういった精神に美術的、情緒的な表現を付与し、この精神を大衆化する役割を果してきたのである。<br />
<br />
だが事実はどうなのか。この十数年の日本では、理想を引き下げた結果、我々の現実は理想に追いつくどころか、目線が下った分だけいよいよ低級になっていったのではないか。理想は私達に方向性を示し、現実を評価する基準を与えるものである。すぐ近くにあるもの、こちらが少し移動しただけで見える向きが変わってしまうものでは、方位を知ることはできない。容易に実現できないくらいでなれば、理想は理想としての用をなさないのだ。また、私達は理念や思想を捨てることで、いよいよ他人に対して酷薄になり、タテマエすらない、むきだしの欲望を押しつけるようになっていったのではないか。他者に寛容であれということ自体が、普遍的倫理の命じる所でしかありえないのだから。そして、博愛を否定されたとき、我々は家族すら愛せなくなったのではないか。我々の「身近な人間」はそれこそ、確率の問題からいっても、ほとんどが我々自身と同様の、ごく平凡な、欠点の多い人間なのだ。能力や徳に関係なく、全ての人間に尊厳があるという感覚を、なんらかの形で持っていなければ、どこに彼等に誠実に接しなればならない理由があるだろう。<br />
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実に、このようにして、我々の世代は全てを失ったのである。<br />
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プラトンは別の所では、芸術が、美のイデアを追求する手段となる可能性を述べたりしているのだから、結局のところ、理想国家からの詩の放逐ということも、創作には、「真の芸術」と、そうでないものがあるという、かの古典的な議論のルーツなのである。この種の、芸術が虚偽を手段としつつも、真なるものを表現しなければならないという考えは、オタク文化が一貫して拒絶してきたものであった。オタク文化は普遍的美の基準を認めず、コミュニティが共有するネタの相互参照と差異化のゲームとしてのみ表現される文化である。<br />
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ソフィスト達がそうだったように、ニヒリストは理想主義者よりも常に、また本質的に雄弁である。普遍的真理が一つしかないタテマエであるのに対して、虚偽や方便や特殊なものは無限にあってバラエティに富んでいるのだから。フィクション、ファンタジーの中に、我々はしばしば普遍的理想を否定する契機を見いだしてきた。ロマン主義者が中世的伝説において、我が国の国学者が記紀神話や王朝文学において、そうしたように。戦後日本の重要な保守思想家の多くが文学出身であったように。<br />
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政治においては、人々を説得し、勇気付け、動かすための「雄弁」、「面白さ」が必要だとは、右翼という訳でない者でも、しばしば主張することろである。しかし、今われわれが直面しているのは、この30年近くにわたってひたすら「面白さ」を極限まで追求してきたオタク文化が、その最終的な帰結として、たとえば、中国人、朝鮮人、底辺叩きほど面白いネタはない、この面白さから逃避し、皆が盛り上がっているのに水を指す奴は偽善者だ、という類の思想に到達したという現実なのである。「面白さ」を主にして勝負するかぎり、それこそ左翼が右翼に勝てる要素など無いのだ。そこに、我々の抱えている問題があり、また、プラトンが彼の時代において、あえてある種のフィクションを排斥するような見解を述べた理由を、我々が現代の問題に引き付けて理解する鍵がある。<br />
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プラトンは美が、究極的な地点で真や善と一致すると考えたのであるが、それはもちろん、フィクションの中に悪行を描けば、その作品自体が悪になるというような、単純な話を意味しない。このような機械的な判断は不可能であるからこそ、私達の社会は、芸術は法的、行政的規制にはなじまないものと認識しているし、それは正しい。しかしこういったことは、フィクションが真や善といずれかの地点で一致する可能性を、また理想的なのもとそうでないものを識別しようという試み自体を、否定するものではないはずである。<br />
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今の日本には、オタク=ネット右翼ムーヴメントに代わるような、新しい文化的な動きは影すら見あたらない。しかしいつかオタク文化が乗り越えられる時が来たとするなら、そこでは結局、芸術が普遍的真実を表現するものだという、古い価値観が新しい形を得ることになるほか無いのではないだろうか。Unknownnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-874687343916343471.post-50805295373691090272012-12-05T21:21:00.001+09:002012-12-15T16:13:50.838+09:00形而上学、および詩人追放論(1)<br />
普遍的正義という古臭い言葉をあえてくりかえして考えているのも、それがオタク文化ともっとも根本的に対立する考え方であり、オタク文化を批判的に見る上でどうしても再考する必要があると考えるからである。<br />
<br />
普遍的な道義的真理が実体として存在するという考えが、古く素朴な、すでに乗り越えられた思想だというのも結局サブカル・ポストモダン右翼の言い分でしかないわけである。まあ、概してオタク世代は彼らの藁人形論法に出てくる形でしか、左翼的、普遍主義的思想というものを知らないという問題もあるのであるが…<br />
しかし、プラトンがイデア論というものを発見した当時、ギリシア世界はすでにそれに先行して、高度に洗練された相対主義の議論を持っていたわけである。「人間は万物の尺度」というテーゼで有名なソフィスト的な雰囲気のなかで、知識階級にとって最大のテーマは弁論術であった。全てが相対的であることが明らかになった今、もはや人類に残された唯一の知的課題は、いかにもっともらしく、また面白いことを語るかという事だけなのであった。<br />
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ソクラテス=プラトンはこういう思想を人間の精神を自由にするものとは考えず、むしろ衆愚政治的状況にだらしなく従い、これを肯定するイデオロギーにすぎないと見なし、批判を開始する。プラトンの形而上学はまさにこのような戦いの中で立ち上がってくるのである。これは素朴どころの話ではなく、古代ギリシア世界の思想的爛熟の果てに見い出された、一種の離れ業なのである。<br />
<br />
現代においてプラトンを読むにあたっては、こういう線で読まないことには一向に面白くないように思われる。抽象的、普遍的志向であるにもかかわらず、一方で極めて状況的、論争的、政治的でもあるというのは、まさにプラトンの特徴で、アリストテレスあたりとの差異が際立つ点だろう。<br />
<br />
プラトンの対話編には、トラシュマコスやカリクレスのような、普遍的正義を否定し、強者の特殊的正義のみを認める論者が登場する。彼等は、単に議論のため、思考実験として極論を唱える役を割り振られた登場人物なのではない。彼らが、当時のソフィスト的相対主義か必然的に生み出していたニヒリズム右翼的な人物像の、生々しい具体的な描写であることは、いまや私達にははっきり理解できるのである。ネットに彼らの類似品をいくらでも見ることができるのであるから。ソクラテスにこまごまと理詰めで攻められ、いかにもしらけ切った態度になっていくカリクレスが、「ネタにマジレスかよw」と言い出したとしても、ある意味違和感はない。Unknownnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-874687343916343471.post-30962732761665533842012-09-29T00:53:00.001+09:002012-10-02T21:54:41.606+09:00現代日本の知識階級のイデオロギーとしてのオタク文化(2)「低学歴」というのと同様に、「ゆとり」というのも、罵倒と嘲笑の言葉としてオタクのコードの中に組み込まれて久しい。<br />
<br />
ゆとり教育批判においては、よく社会階層の固定化を招くとかの意見があったが、このへんはだいたい後づけの議論であろう。それを言うなら、現代の教育制度が、中産階級の権益がむやみに拡散することを防ぐための関門になり下っているという事が、同時に問題にされなければならないが、そういう事は、所与の現実として肯定されてしまうのであるから。<br />
<br />
では、実際には何が批判されていたのか。少くともネットでの批判の多くは、「何のための学問か」という疑義を持つこと自体を、負け犬の遠吠えと見なし、否定するという点に主眼があったように思われる。曰く、国際テストの点数で負けていいのか、競争に勝てるたくましい生徒を育てなければならない、文句は、まず勝者になってから言うがいいと。<br />
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しかしながら、学問の目的ということは、初学者であれ、立派な知識人であれ、常に立ち帰って考えなければならない問題である。わりとああいったレベルで議論が決着したことは、オタク的な知的マッチョ、知識の自己目的化ということが、日本の国家的合意となったということでもあった。<br />
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なおほかにオタクが相手にバカのレッテルをはる時の言葉としては「文系」というのもある。オタクの道義的判断を棚上げする態度は、理系信奉という形で表れることもある。もとより自然科学が道義的価値判断を保留するのは、学問としての守備範囲の話に過ぎないが、オタク文化においてはしばしば知的プライドの問題と結びつく。<br />
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オタクが自分達を冷静で現実主義的な知的選良と見なす一方で、また自分達が世間から偏見の眼で見られ、冷遇される存在であると考え、不満を訴えるのは、何を意味するのか。<br />
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オタクへの偏見ということは、かつてたしかにあったのであるが、その偏見に対する怒りの中には、「自分達は賢いのに、それに相応しい扱いを受けていない」というニュアンスがしばしば含まれていた。ここにおいて、オタク・ムーブメントは、底上げを重視し、あらゆる人に広く教育を施すことが社会全体の善の増大につながるという、戦後民主主義的な教育理念に対する「報復」の運動という方向性を孕むだろう。<br />
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また、戦後の日本では、学校では、一般的な教養、総合的知性を教える一方、実践的教育は企業や職場が改めて担うというような分担が、成立していたように思われる。これはこれで合理的なシステムだったと思うのだが、一方このしくみは、学校で教わったことは、実社会では、直接的には役に立たないし、学校での成績の良さが自動的に社会で尊敬される訳でもない、ということを意味する。(それでも決して、教育を受けた人間が尊重されていないという事ではなかったのだが)<br />
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近年の新自由主義的潮流は、こういった「旧態依然とした」日本の教育システムを解体していったが、これは多くのオタク的知性にとって、支持すべきものであった。<br />
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今日の日本では、オタク文化に背をむけようとしても、オタク関連以外の文化はなおいっそう停滞気味なのが現実である。そこで、日本語で表現された同時代のインドア系の娯楽やアートに関心を持つような層は、みな大なり小なりオタク文化に触れることになる。今や、ある年齢以下の人々の国民的素養と言えるものは、アニメやマンガやゲームしかない。<br />
韓流バッシングということがあり、一部のオタクも同調した。しかし韓流ドラマの攻勢は、むしろ日本におけるオタク文化の支配的状況を物語るものである。つまり、我々の社会は、非オタク向けの大衆娯楽については、もはやこれを自給する能力が無いのである。<br />
<br />
かくて我々はオタクと関係ないつもりでいても、オタクとこれに複雑に結びついているネット右翼とを、自分達の知性と美意識の代表者として仰ぐことに甘んじている。オタクの言葉を使って思考し、議論することを唯唯として受けいれている。<br />
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今や、オタクの知的、文化的支配力、リーダーシップということが、真面目に議論されなければならない。<br />
現実の社会システムにおいても、オタク=ネット右翼世代が重要な決定を担う地位に付くのは、いよいよこれからである。Unknownnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-874687343916343471.post-74283091278870395492012-08-21T21:25:00.002+09:002012-08-21T22:10:59.618+09:00現代日本の知識階級のイデオロギーとしてのオタク文化(1)オタクの言葉で相手を罵倒する時のレパートリーといえば、「朝鮮人」「左翼」の次は「低学歴」と来るわけで、オタクの拠って立つ価値観が表れている話ではある。<br />
<br />
そもそもオタク文化の最も原初的な性格は、知識比べのゲームという点にあるだろう。「オタク」という語を最も広い意味で使うとき、それは好事家とかマニアというのとだいたい同じになるのだが、その場合でも、役に立つのか立たないのかよく分からない知識をひけらかす人というニュアンスは残るわけである。<br />
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知識自慢のためには、どうしても相手が、それもある程度認識を共有している同好の士が要る。オタク文化やオタク向け作品が、コミュニティの存在を前提とする理由はここにある。一方、常に同類を必要とし、排他的であるわりには、仲間意識や連帯感のようなものは希薄である。そういうものは、「体育会的なもの」として寧ろ軽蔑している。結局、相手は自分の知識のためのダシであり、共同してなにかを成し遂げるような関係にあるわけではないということだろうか。<br />
<br />
ところで、こういう特徴を持つ人々は、概してペーパーテスト的な事は苦手ではないはずで、学歴的観点から言えば、オタクを社会的敗残者と見なすような一部の論調は、まず事実関係としても正確でない印象はある。<br />
しかしより本質的なのは、属人的事実ではなく、オタクが自らを知的エリートと規定し、あるいはエリートに自己投影し、常にエリートの側に立って思考するということである。<br />
<br />
洋の東西を問わず、かつて理性とか知恵という言葉は、善悪について判断する力という意味合いを含んでいたわけである。これは、善や正義というものが、人間の気分や感情の問題ではなく、何らかの意味で世界の普遍的法則として存在するという、形而上学的思考に由来する。しかし現代では、マルクス主義あたりを最後に、こういう発想法は一向に流行らないから、きょうび「理性的に考えろ」と言われたら、それは「善悪についての判断は保留しろ」の意味である。現代日本の知的エリートとは、道義的な判断を保留する訓練において、好成績を収めた者である。<br />
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<br />
オタク=ネット右翼は、つねづね「感情的」な左翼に対して、自分達を理知的な存在として誇っているが、それは上記のような文脈において正しいわけである。左翼にとっては、懐疑的知性はせいぜい社会的公正を実現させていくための手段でしかない。そういう態度を感情的と呼ぶのがオタクの用語であるなら、まあ感情的と言われるのは名誉という他はないが。<br />
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こうして、オタク世代にあっては、自らの知性に自負心を持つ者、高い水準の教育を受けた者が保守的、右翼的となる傾向にある。ネット右翼に無知蒙昧のレッテルを貼って安心している人々もあるが、そう簡単ではないわけである。Unknownnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-874687343916343471.post-68388559845192956992012-07-23T19:59:00.002+09:002012-09-29T01:41:04.487+09:00表現規制問題雑感2010年の東京都青少年健全育成条例改正問題(いわゆる非実在青少年問題)を、保守的なオタク文化の転機だったと評する向きもあるが、あのとき抗議の中心だったのは、古参の漫画関係者などである。<br />
<br />
マンガはオタク関連ジャンルと一般にみられるが、マンガはオタクよりも——オタクという言葉が生まれ、オタクがオタクとしての自覚を持って活動をはじめるよりも古くから、大人を対象としたジャンルとして発展してきた経緯がある。オタク以前のカウンターカルチャー的な部分も持っているのである。<br />
一方、よりプロパーなオタクの間では、「エロマンガは読みたいが、表現の自由を声高に叫ぶようなサヨク、プロ市民みたいな真似はできない、どうするか」みたいな(左派から見ればどうでもいい)ダブル・バインドを、いかに切り抜けるかという問題が都条例をめぐる思想的最前線となったのである。<br />
<br />
<br />
多くのオタク=ネトウヨ、サブカル保守的立場の者は、表現規制派の道徳主義的、規範主義的傾向は、サヨクの特長であるとして批判してきた。<br />
一方、少数のオタク左派(私に言わせれば、彼等はオタク文化か左派の思想のどちらかの理解がヌルいのであるが)は、道徳主義、規範主義を右翼的なものと見なす。してみれば、道徳主義がオタクの敵であるという点では、だいたい一致しているわけであるが。<br />
<br />
この問題は、一面では、右翼側の主張が正しい。<br />
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道徳というものは、その性質上、国家権力や、この世のどんな権威にも先行して存在することになっているわけで、それゆえに、時には反権力の側に立たされる。まあ表現の自由とか、自然法とか人権思想とかいうものも、つきつめれば一種の普遍的道徳なのである。モラリストは、完全な権威主義者にはなれない。その点、オタクは自由であり、どんな場合でも融通無碍に、強い者の側に付くことができるのであり、この点をもってオタクは自分達を「現実主義者」と規定する。<br />
<br />
ところで、そもそも石原慎太郎という人が、かつての自身の著作に典型的に表れているように、元来道徳主義、規範主義とはもっとも縁遠い人物である。まだ若い頃には、その身体性、暴力性、反社会性をもって文弱の徒どもを威圧することで名声を得たが、地位を得てからは、今度はその社会的権威を最大限利用するというまでである。<br />
<br />
そういう意味で、条例改正問題においても、都知事にとっては、敵がマンガやオタクである必然性はなく、たまたま槍玉にあがっただけであろう。都知事の支持者は、弱い者に対して自分も横暴に振舞ってみたいとう願望を代行してくれる者にあこがれ、支持している。相手は勝てるならわりと誰でもよいのである。<br />
<br />
こういう石原都政の遊戯的でロマンチックな性格には、実のところオタクとの思想的対立点はあまりないのである。オタクの間では「二次元を規制する前に○○を規制しろ」のような、いかに矛先をそらすかという形の議論が目立ったのも自然な話であったろうか。<br />
<br />
また、都の表現規制が思想的、道義的規範によるのではないという事実は、規制が厳しくなっても、おとなしく、目立たないように活動し、敵対を避けていればすぐには困らないだろうというオタクの希望的観測の理由にはなる(実際には、政治的なネタ作りのためだけに、相手を完全に潰すということもあるのだが)。<br />
<br />
それよりは、サヨク的なものの方がオタクにとって依然として危険という訳である。左派は漫画やオタクを法で禁止はしないかもしれないし、そもそもそんな権力もないが、人権思想などの普遍的規範になにかしらの敬意を払うような社会では、そもそもオタク文化のようなものはあまり流行らないか、本質的に変化せざるを得ないだろう。左翼的なものは、オタク文化を、より内面的な部分で危険にさらす。左翼的なものは、オタクのアイデンティティに対する挑戦となる。多くのオタクは、直感的にそのことを知っているのである。<br />
<br />
しかし、表現規制の問題は、もとよりオタクだけで終わる問題ではない。だからこそ、コミック等の規制に反対する者は、かえってオタク文化からある程度距離を置いて考える必要がある。<br />
<br />
<br />
表現規制に反対する者の一部で、保守的なオタクを「肉屋を支持する豚」と呼ぶことが流行した。しかしながら、こう言われてたじろぐのは軽度のオタクだけで、筋金入りのオタクであれば、こんな批判は全く意に介さないだろう。そもそも「我々はみんな豚で、養豚場の『外』の世界など無い」というのが、オタクの思想だからだ。肉屋が高く買ってくれるから、エサがもらえるのだ。ならば、良い肉豚であることに徹し、ケージの中の平和を堪能するべきだ。それが出来無い敗者が、養豚場の外の世界というサヨク的空想の中に逃げ込み、肉屋に反抗できると錯覚するのだ、と。<br />
<br />
これは現代社会の一面の真実ではあるし、日本のオタク文化はケージの中で快適にすごすテクニックの開発で実際世界を驚かせるレベルにまで達し、国内的にはほぼ唯一の、まだ多少は活力の残っているコンテンツ産業となった。これはそういう彼らの成功体験に裏打ちされたオタクの矜持でもあり、単なる虚仮脅しと侮るべきではない。<br />
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オタク=ネトウヨ文化の克服とは、かかる思想と真剣に対決していくことだ。Unknownnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-874687343916343471.post-12364872475163231562012-06-30T18:59:00.000+09:002012-09-29T02:18:33.247+09:00オタクが反逆者だったことはあったのか(2)ロマン主義運動については、オタク文化との類似点はいくつも思い付く。特にそのファンタジー趣味な部分については、単に類似しているだけでなく、オタクはロマン主義者の直接的な子孫でもある。<br />
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強いて違う点に注目すると、オタクが主知主義的であるのに対して、ロマン主義が直感的、情熱的であるという風に見えるかもしれない。「いかなる普遍的正義も理想も信じない」という態度を、オタクは自らの懐疑的知性の証拠と見るのに対し、ロマン主義者は自らの奔放な生命力の発現と見なす。しかし、こういう自己規定のやり方はともかく、やってることは似かよっている以上、そのやがて辿るべき運命も似通ってくるのではなかろうか。<br />
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さて、ロマン主義というものも、当初、自分達こそが、人間を道徳や啓蒙主義的正義といった抑圧から自由にし、開放する思想であると主張したのであった。<br />
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しかし自由という言葉はあいまいである。道徳や正義を、抑圧の道具であるとして否定したのはいいが、それは大衆が権力に抗議する根拠を否定することでもある。一方、権力の側では、べつに正義を主張するのは効率的な統治のための手段の一つにすぎず、無ければ無いで良いのであった。価値観を相対化しても、権力は相対化されない。<br />
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かくして、ロマン主義が目指した、正義や道徳、普遍的規範からの自由は、国家や民族、権威としての教会組織という「強者」との合一という形でしか実現されない。<br />
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ただし、初期のロマン主義者は、口では「押しつけられた道徳など不要だ。人間の感情と官能を自由に開放すればよい」と言いながらも、その開放された先には、暗黙の常識、良識というものがあって、自然とそこに落ちつくと期待していた節がある。外から強制されるから人間がゆがんでいくのであって、自然にしていれば、人間本来の善性が発揮されるという、一種の性善説である。してみれば、彼らは、普遍的正義というものを完全に否定したのではなく、啓蒙主義とはちょっと違う形でそれを得ようとしただけ、という見方もできようか。<br />
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こうして、特にロマン主義のフランス的展開は、人道主義的保守主義とも言うべき、わりと穏健な所に落ちつくのであったが、これは思想的には、むしろ不徹底なのである。<br />
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詩人ハインリヒ・ハイネは、ドイツのロマン主義の右翼性の厳しい批判者であったが、一方で本人が至ってロマン主義的な感性の持ち主であった。<br />
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彼の、持ち前の反骨精神による、体制順応的なロマン主義右翼への批判は本物なのだが、一方で彼自身の、古代の異教の神話や伝説の奔放さ、「自由さ」への傾倒を、「古典主義的」「合理主義的」「民主主義的」と見做すという混乱からは抜け出せなかった。<br />
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近代的市民は、神でも英雄でもない。しかしだからこそ、協力しあわなければならないし、協力しあうことによって、神や英雄の末裔と自称する王侯貴族やその国家に対抗することもできる。そういう個人としての無力さの自覚と、自分たちの社会性への自信が、近代人を解放した。<br />
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かくして、左翼的なものは、本来社会的なものである。それは、古代の神々に共感し、そこに生命の開放と自由を見い出すというような、「ロマンチック」なものとは別のものである。<br />
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異教的なものの理解としては、そこに強者の崇拝、反民主主義=反キリスト教的精神を見いだすニーチェなどの理解のほうが一貫性はあるだろう。まあ、古代人は人知を越えたものとしての神の力を純粋に恐れたので、神々と人間を重ね合わせて考えるようなロマンチックな所はなかったのであるが。<br />
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ハイネもまた、当時の「後進国」ドイツの知識人の宿命として、近代的、市民的自由というものを完全には理解できなかったということであろうか。およそ現代の日本人にとっては笑える話ではないのだが。自由という言葉はあいまいである。オタクが「自由」を口にするときも、それが「権力からの自由」を意味したことは無いのである。<br />
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あるいは、この詩人はいわばロマン主義に徹しきれないロマン主義者であったであろうか。彼を後にして、のちにヨーロッパは極限まで純化されたロマン主義としてのナチズムを見るだろう。<br />
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いったい人間いろいろ矛盾を抱えているのがむしろ当然ではあり、何でも無矛盾で一貫性があればよいという訳ではないだろう。しかし議論に限れば、徹底している方が有利である。<br />
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オタクが自分はネット右翼じゃないと言い訳しつつも、結局ネット右翼を暗黙に容認せざるを得ないのも、ネット右翼が、その反市民運動、反・反権力的な文脈において、最も徹底した、最もオタクらしいオタクであるからである。オタクの枠内でネット右翼を批判しようとすると、結局、「ネトウヨは底辺」「ネトウヨはブサイク」「ネトウヨの正体は朝鮮人」などといった、本質的でないばかりか、言ってる本人の右翼性が露呈する形にしかならない。<br />
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だからこそ、オタク文化そのものへの懐疑が必要なのである。Unknownnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-874687343916343471.post-53008580495516835202012-06-28T23:15:00.000+09:002014-06-19T23:53:46.761+09:00オタクが反逆者だったことはあったのか(1)およそオタク以前の時代は、知的な大人は現実社会において、社会正義の実現に関心を持たなければならない、という価値観が少くともタテマエとしては主流で、だからこそ大人がフィクションに過度に沈溺することに、世間は否定的だった。少くとも、大人が鑑賞するものには、現実社会の役に立つような、社会性、テーマ性が無ければならないと考えられていた。<br />
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そこに、「一般人のくせに社会問題などに関心を持つのは、自分を賢く善良にみせかけようとする賤しい偽善者のすることである、むしろ政治性、テーマ性に逃げずに純粋にメカやら美少女やらを審美的に愛玩する自分達こそ、真に知的な人間だ」という価値観の逆転を持ちこんだのが、オタク文化であり、ここにオタク文化の基本的な精神がある。<br />
今日、大人がマンガやアニメを見ていても特に何もいわれない社会が実現したのは、そういう逆転の成果であった。<br />
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比較的古参のオタクはしばしば、こういう歴史的経緯をもって、オタクこそ体制に対する反逆者であると規定する。<br />
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しかし、これは本当は何に対する反逆だったのだろうか。<br />
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およそオタク文化が持っている、価値相対主義的、冷笑的性格は、一部でサヨク的なものと見なされるので、これがオタク文化の右翼性をめぐる議論を混乱させる。<br />
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だが、相対主義とニヒリズムは、近代以降の右翼思想、とくにロマン主義的右翼の中心的な部分である。<br />
普遍的正義を志向する啓蒙主義に対する「反逆」としての近代の右翼思想は、「宗教も民族もぶっちゃけフィクションかもしれないけど、そっちの方がもり上るんだから、そういうことにしとけよ」という一種のひらきなおりの面を、大なり小なり持つ。彼らが色々の理論を口にしたとしても、決して本気では信じていない。<br />
結局のところ、宗教的、伝統的共同体を素朴に信じられた時代にはいまさら戻れないのであり、そこに近代以前の伝統志向と、近代の保守/右翼との根本的な違いがある。<br />
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今日のネット右翼に、記紀神話を額面通りに信じるのか、と聞けば、そういうことにしておいた方が、社会秩序が維持されるとか何とか、功利主義的なことを答えるだろう。俺が神話をまるごと信じるようなバカだと思ったのか?と言わんばかりにせせら笑いながら。<br />
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一般に古典的な左派は真面目なので、こういう右翼思想の本質である不真面目さがよく理解できない。相手もまた自分とは別の、何らかの理念を持っていると考えてしまうのである。<br />
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だがオタクにはこういった右翼のノリは生得のもののように良く解る。「つまらん真実よりも面白い嘘」「フィクションと知りつつあえてハマる」というのは、まさにオタクの哲学そのものなのだから。Unknownnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-874687343916343471.post-47997558950691223442012-06-27T23:34:00.000+09:002012-07-04T17:01:56.281+09:00オタクの政治的コンセンサスとしてのネット右翼今日、いわゆるネット右翼ムーヴメントは、オタクの政治部門としての機能を果している。<br />
オタクとの関係を無視してネット右翼運動を理解することはできないし、ネット右翼を無視してオタク文化を語ることもできない。<br />
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かくして、オタク界隈では、朝鮮人、中国人、左翼、貧困層などは悪の代名詞であり、実際アニメやゲームなどの作品に否定的な評価をするとき、これらのレッテルを貼ることは今日び「オタク用語」の一部であるから、こういうネット右翼的世界観を共有していなければ、オタク同士の交際にも差し障りがあるというわけである。そしてまた、これらの世界観を土台にして、日々あらたなオタクネタが作られていく。<br />
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一方だからと言って、オタク一般との付き合いは断って、一人で作品を鑑賞して楽しむことができるかと言えば、そうもいかない。<br />
というのも、いわゆるオタク向け作品というものは、皆でネタを共有しあい、話題にすることを楽しむことが主眼であり、一人で鑑賞して楽しめるようにはまず出来ていないからである。<br />
むしろそういう、作者と鑑賞者が個人として向かい合うというような近代的芸術観を、古くさく窮屈なものとして進んで否定してきたのが、オタクの歴史でもあった。<br />
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だからこそ、製作者側も、ネットが主要なオタクのコミュニティとなった現在、そこで評判を取るべく、その方面にしか解らないネタを積極的に作品のなかに仕込む。こうして常に「暗黙の了解」「オタクのコンセンサス」というものを送り手と受け手とで形成しながら、それについてこれない者を部外者として排除する、そういうゲームが、オタク活動というものの一つの形態である。<br />
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オタクにはいざとなると急に個人主義的態度になり、自分はネット右翼とは関係ないという態度を取る者もいる。しかしオタク文化とはコンセンサスの文化であり、このオタクの「暗黙の了解」の集積こそが、オタク文化の本体であり、オタクの意思であり、オタクの選択である。その中に、右翼的な世界観が深く根付いているということの意味を、考えなければいけない。<br />
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そうしてまた、今日の日本の排外主義的、新自由主義的政策は、オタク=ネット右翼層の声を「国民の声」として取り上げ、彼らの動向を横目で睨みながら、進められていくのであった。<br />
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こういったことはこの10年くらいで目立つようになったことではあるが、決して歴史の偶然でたまたまこうなったわけではない。<br />
つまり、オタク文化は当初より右翼的性格を持っていたのであり、ネット右翼がオタク文化の政治的代表権を持つというのは、単に現状がそうであるだけでなく、正統性の問題でもあるのだ。Unknownnoreply@blogger.com