2012年12月5日水曜日

形而上学、および詩人追放論(1)


普遍的正義という古臭い言葉をあえてくりかえして考えているのも、それがオタク文化ともっとも根本的に対立する考え方であり、オタク文化を批判的に見る上でどうしても再考する必要があると考えるからである。

普遍的な道義的真理が実体として存在するという考えが、古く素朴な、すでに乗り越えられた思想だというのも結局サブカル・ポストモダン右翼の言い分でしかないわけである。まあ、概してオタク世代は彼らの藁人形論法に出てくる形でしか、左翼的、普遍主義的思想というものを知らないという問題もあるのであるが…
しかし、プラトンがイデア論というものを発見した当時、ギリシア世界はすでにそれに先行して、高度に洗練された相対主義の議論を持っていたわけである。「人間は万物の尺度」というテーゼで有名なソフィスト的な雰囲気のなかで、知識階級にとって最大のテーマは弁論術であった。全てが相対的であることが明らかになった今、もはや人類に残された唯一の知的課題は、いかにもっともらしく、また面白いことを語るかという事だけなのであった。

ソクラテス=プラトンはこういう思想を人間の精神を自由にするものとは考えず、むしろ衆愚政治的状況にだらしなく従い、これを肯定するイデオロギーにすぎないと見なし、批判を開始する。プラトンの形而上学はまさにこのような戦いの中で立ち上がってくるのである。これは素朴どころの話ではなく、古代ギリシア世界の思想的爛熟の果てに見い出された、一種の離れ業なのである。

現代においてプラトンを読むにあたっては、こういう線で読まないことには一向に面白くないように思われる。抽象的、普遍的志向であるにもかかわらず、一方で極めて状況的、論争的、政治的でもあるというのは、まさにプラトンの特徴で、アリストテレスあたりとの差異が際立つ点だろう。

プラトンの対話編には、トラシュマコスやカリクレスのような、普遍的正義を否定し、強者の特殊的正義のみを認める論者が登場する。彼等は、単に議論のため、思考実験として極論を唱える役を割り振られた登場人物なのではない。彼らが、当時のソフィスト的相対主義か必然的に生み出していたニヒリズム右翼的な人物像の、生々しい具体的な描写であることは、いまや私達にははっきり理解できるのである。ネットに彼らの類似品をいくらでも見ることができるのであるから。ソクラテスにこまごまと理詰めで攻められ、いかにもしらけ切った態度になっていくカリクレスが、「ネタにマジレスかよw」と言い出したとしても、ある意味違和感はない。