2015年3月12日木曜日

理工系の保守主義について

「数学のできない人間は、完全には人間ではない。」
──ロバート・A・ハインライン「愛に時間を」

自然科学を重視することを「左派的属性」だとする考え方があり、当の左派のみならず、ある種の保守派からも(進歩主義批判のような否定的な意味で)言われることがある。しかし、これは俗説だろう。

「知は力なり」とは、フランシス・ベーコンの思想とされるが、ベーコンはまさにこの意味において自然科学を重視し、伝統的な学問の実効性の乏しさを批判したのだった。一方、政治家としてのベーコンは、政治倫理のもつ実効性を疑い、しばしば権謀術数を肯定する面を持っていた。 自然科学それ自体には、政治的価値判断は含まれないとしても、生身の人間が、科学を自分の専門として選択するということは、近代科学の始まりの時から、すでにある種の政治的選択と関係していた。それは、オタク文化が、ときおり美化されるような、子供のように純粋な趣味や美の追求などではなく、ある種の反動と復讐でもあったことに似る。

科学技術の知識は、軍事関係の知識と並んで「知は力なり」を最も具体的、即物的に実現するものと見なし得る。それゆえにこの両ジャンルは、専門知識を自慢とするオタクの文化が、ロマン主義的な力への憧れと結び着く部分となり、オタクの間で特に重視されるのだ。

このような知的マッチョイズムは、ある面でやや幼稚に見えるし、オタク自身も人に言われる前に先手を打って、防御的に、自嘲しながら活動している。しかしまた、ここにはオタクの実も蓋もない本音がある。そしてネット、オタク界は、その本音をもっともらしく取り繕う理論の蓄積には事欠かない。

自然科学と比べれば、文化系の学問の実効性や真実性にあいまいな所があるのは確かである。そのため、いささか偏狭な、オタク的理工系の秀才から見ると、文化系の学問などはしばしばフィクション同然に見える。彼らの見方では、科学の守備範囲から一歩出ると、そこから先は何も証明できない混沌になっているのである。

もちろん実際には文化系の学問にも実効性を高め、真理に近づくために蓄積されてきた様々なルールがある。自然科学の外側もいきなり無秩序の絶壁になっているのではく、確実さについていろいろな段階があって、全体として人間の知的文化が成り立っているというのが、適切な見方であるのだが。

ともあれ、自然科学の外に重要な真理はないとすれば、歴史や思想や芸術などは、官能と知的遊戯性にいかに奉仕するか、つまりネタとしてしか評価されないことになる。こういう点は、オタク文化の特徴の一つであり、オタク文化の持つ、理工系秀才たちの余技的な芸術運動としての側面である。オタクが大衆化した現在でもそれは継承されているのだ。


自然科学から導かれる、没価値的、没倫理的な事実を種にして、通常の人間社会の道徳や常識が全く相対化された特異な世界を描き出すエンターテインメントの手法は、サイエンス・フィクションと呼ばれる。

SFはオタク系フィクションでもよく用いられる要素で、SFファンは今日のオタクの源流の一つでもあるが、こういうSF的センスともいうべき形で、オタク界隈では科学的合理主義と、人文、社会科学的な価値や倫理への冷笑主義が同居する。 そこにある種の理工系の保守主義というものが成立する。


「技術立国」という高度成長後の日本の自己規定、成功の物語は、保守派からも好まれるものであったが、それは単純なナショナリズムのみを理由とする訳ではないだろう。

すなわち、戦後の日本の大衆が真に求めてきたものは、民主主義や国民主権などの絵に書いた餅ではなく、もっと具体的な豊かさであり、この豊かさをもたらしたのは、「進歩的文化人」ではなく、科学技術と、これを担う科学者、技術者ではないか。保守派が技術立国日本を称揚するときには、このような戦後日本の発展に対する評価が、暗に付随してきた。そして当の科学者、技術者層もまた、しばしばそのようなビジョンに基づいて、自分たちの仕事に誇りを見出したのであった。

この理工系の保守主義に見られる、戦後の民主主義的改革や政治運動に対する低い評価にも関わらず、それが世の中を豊かにしようと真に考え、多くの貢献をしてきたことは事実である。その点で、これを新自由主義的傾向の強いオタク=ネット右翼運動と同列に論じることは、公平ではないだろう。

それでもやはり、オタク文化は戦後日本の理工系保守主義の考え方を前提として成り立っている。両者の違いは、やはり今日のオタク文化が拠って立つテクノロジー、ネットの技術が、大衆を物質的に豊かにするというような性格を持っていないことに由来するのだろう。結果として、テクノクラシー的なエリート志向が、前面に出ている。オタク=ネット右翼運動は、現代日本のIT業界の技術者層の地位と利益とプライドを代弁してきた。

技術者による効率的支配を目指すという20世紀のテクノクラシー運動は、米国では、民主的意思決定の元での行政の効率化など、その影響は穏当な範囲に留まったが、ドイツではナチズムに接近していった。政治面で遅れた国において、ときに技術者は、科学技術の発展により、西欧式の民主主義や人権思想を必要としない「もうひとつの近代」を実現できるという理想の担い手となる。オタク・ムーブメントはネット技術と結びつくことで、現代日本において、この理想を実現しようとするのだ。

科学的合理性をもって近代社会の性質を代表させ、一方で倫理的規範を、権威主義的であり、反近代的、反民主主義的なものと見なす考え方がある。科学技術がもたらす物理的な恩恵は、素人にも解りやすいものであり、その意味では科学技術は大衆的であると言えなくもない。

しかし、民主主義の必要性は、政治が倫理的なものであり、社会正義の実現を目的とするものだという立場からこそ生じる。倫理こそが、大衆的なものである。それは、一つには、倫理や道徳では「専門家」を育成する確固とした方法などあった試しがないという理由がある。しかしより本質的なのは、道義的判断は、自分の意思で行うのでなければ、そもそも道義的と言えないということだろう。世の中には、その道に優れているか劣っているかに関係なく、自分でやらなければ意味のない事があるのだ。逆に、もし政治が利害の調整や、衣食住の合理化、効率化のためのものに過ぎないとすれば、結局、全ての判断を専門家、プロに委ねるのが上策だという話になる。そしてそのような社会において、自分達が高く評価されることこそ、オタクとオタクの文化が孕んできた期待であったのだ。

近年、福島第一原発の事故が日本にもたらした影響は深刻で多岐にわたるが、思想的な面では、事故とその後の一連の対応の中で、我が国の原子力技術を担うエリート達の、甚しい道義的退廃が露呈したことがあった。彼らはいわゆる「御用学者」と呼ばれ、批判されることになった。
しかし、オタク界は、この論争を道義的問題とは捉えず、科学知識の多寡の問題、技術エリートのアイデンティティの問題に直ちにすりかえたのであった。原発事故後、「反・反原発」が速やかにオタク文化を構成するミームの一部となったことは、オタクの性質を知っている者にとっては、何ら驚くに値しない。しかし、今日の日本の科学界の退廃や不祥事は、結果として、真っ当な科学者や技術者が自分の仕事に打ちこめる環境自体も破壊するだろう。オタク界隈では、(しばしば自らが属する)日本のIT業界の技術者の待遇の悪さが話題になることも多い。そして少なからぬオタクがその原因を、科学技術を侮蔑する大衆が、理工系の人間が本来得るべき権益を不当に掠め取っていることに求める。かくして、日本の労働者は分断されていくのだが、技術者の不遇の本当の原因は、オタクが先導してきた政治への侮蔑にこそあるのではないか。

しばしば保守主義者達は、科学技術を近代社会の本質とする見方を自ら煽っておいて、一方で私達が倫理的な価値、人間の目的となるものを求めるのであれば、それは前近代に、歴史ロマンの中にしかないのだと恫喝してくる。この種の脅しに対抗するためにも、人間の社会に一層高い水準の自由と公正を求めようとした、近代の倫理的、規範的性格を改めて強調することに意味がある。