優れた政治的、社会的メッセージというものは、ある種の「当事者性」が重要なのである。問題を一般論として、単なる知識として、消費させてはならない。聞き手に、これが現実の問題であることを思い知らせ、当事者としての決断を迫るような生々しさが無ければならない。受け手を挑発して、問題の中に引きずり込む力が無ければならない。
その点で、政治的メッセージに寓意的表現は本来あまり適さない。名指しで議論をすると、弾圧を受けるというような場合はやむを得ないが…。一方、特撮やアニメーションのような「オタク系」表現にも、いろいろな可能性があるとはいえ、その豊かな鉱脈は、やはり寓意やファンタジーにあった。アニメがオタクの芸術部門として選ばれ、オタク・ムーブメントの中心的地位を占めるようになった理由の一つは、その寓意とファンタジーによって、あらゆる問題を括弧に入れて 、当事者性を薄め、意匠化、「ネタ」化してしまう能力の高さだろう。オタクはアニメや漫画の表現力のこういった面を発展させることに注力してきた。
実際、「意匠」としてなら、ゴジラやガンダムの登場人物が核兵器や戦争に否定的な言及をすることも、一定の意味はあったのである。たとえばそれは悲壮感やスケールの大きさを演出し、作品の本来の主題である、怪獣による破壊のイメージや、モビルスーツによる戦闘のかっこよさを引き立てる効果を生む。あるいは、多少の衒学趣味を満たす味付けとすることもあるかも知れない。一方、字面どおりに政治的意味を読み取ることはこの場合誤読と言える。これは、「オタク的」な作品の読解全般に言える傾向だ。
なお、オタクが空想と現実、二次元と三次元、という対立軸を設定し自分達を前者の側に置くとき、現実的であるとか三次元的であるという事は、まさにこの「当事者性」のことを指して言っているのであり、単に写実的とか緻密であるとか正確であるという意味ではないことには注意を要する。緻密であるという意味でのリアリズムは、オタクも必ずしも否定していないどころか、時には自分達をこの意味でのリアリストだと自認している。一方で当事者性の否認は、オタク文化のアイデンティティに関わる問題なのだ。
ともあれ、後続のオタクから見れば、初期のオタクたちが未だ「拘泥」していた社会的メッセージ性というものは、オタクの影響力がまだ弱かった時代の、大人がアニメ等を見ることに対する弁解や方便(それは世間に対するものであると同時に、自分自身を欺くためのものでもあった)にすぎず、オタク以前の時代の名残りであり、オタク表現にとって本質的でない、足枷となるものであった。そして、それを切り捨て、表現様式、表現技術上の自由を広げる方向でオタク文化の主流は展開していくことになったのである。これは、芸術の本質が言葉で説明された部分ではなく、美的様式の中にこそあるという観点では、正しいものであった。
一方今日でも、オタク文化の右翼性を否定する意見は、しばしばかの古き「ガンダム反戦説」のような芸術観に依拠している。つまり、オタクの表現様式というものを、どんな政治思想でも自由に入れることのできる中立的な入れ物とみなし、それゆえにオタクと右翼思想は本来的には無関係だというのである。だがこのような主張は、いささか表層的な見方であり、かえって「オタク左派」の弱点となるものではないか。
例によって、古典的な左翼は真面目なので、芸術作品の解釈においても、よく練られていない国語のテストの設問のように、散文的に説明できる「作品の主張」を性急に求めるきらいがあった。そのため、全体の美的構造とは一致していないが、知的には把握しやすい政治的、思想的言及を主題と錯覚しがちである。反左翼芸術運動としてのオタク・ムーブメントは、遊戯的、審美主義的鑑賞の能力に優れる文化的エリートの立場から、このような左派の弱点を攻撃し、嘲笑うものでもあったのである。
オタクとネット右翼が関係ないという主張の例証として、ネットでしばしば宮崎駿の名が挙げられているのを見るのだが、宮崎駿がオタク界にどのように受容されたかということも、慎重に考えなければいけないだろう。
宮崎の芸術家としての部分が、後のオタクに多大な影響を与えたのとは対象的に、彼の左翼的、反戦的言動の部分は、オタク界ではだいたい嘲りを受けてきた。「作家としての宮崎駿の本質はしょせん軍事オタクのロリコンではないか、何をもって平和やリベラルな価値観を語るのか」という訳である。
むろん宮崎自身はポーズで「左翼」やってたような類の昔のオタクとは訳が違うが、宮崎のフェティッシュな美術的才能と比較してしまえば、彼の政治的主張の方はやや普通、平凡であるという話になってしまうし、作品の上で重要な役割を果しているとはやはり言えない。
宮崎がその晩節において、またオタクの右翼性が明確な形で表われてきたこの時代において、「風立ちぬ」のような作品を出してきたことは、オタクの限界を象徴する事だった。この作品は、結論だけ言えば、現実の戦争さえもオタクにとっては(この場合航空機、兵器に対する)フェティシズム探求の機会にすぎないという、オタクの理想をロマンチックに美化して歌い上げるものとなった。
「我々の夢の王国だ」「地獄かと思いました」…映画の最後になって何か自責的なことを言っているのだが、これは「地獄変」の良秀が最後は首をくくって死ぬというのと同じ構造で、一方では、平均的な読者を道義的に安心させるための付け足しだが、一方では、地獄行きも辞さないほどの美的探求の「悪魔的魅力」を誇示する副次的効果を持つ。こういう部分から「戦時下での純真な技術者の苦悩」がテーマであると読んでしまうのも、また「左翼的誤読」の一つだろう。
一般的に、エピローグ的な部分というのは、作品全体の美的構造に大きな変更を加えることなく付け替えることのできるものであり、そのため、本編とあまり関係ない政治的、道義的弁解を盛りつけるには便利な箇所なのである。そしてそれを「最後に言ってることが、つまり全体の結論だろう」と読んでしまうのも、よくあるパターンではある。
結局、後続のオタク達が、宮崎駿の美術的部分のみを継承し、その政治的、社会的メッセージを拒絶したのは、彼等が作家を十分に理解しなかったからではなく、ある面で作家本人以上に、その作品の本質がどこにあるのかを明け透けに認めた結果だとも言えるのであった。
[続く]