2014年4月25日金曜日

オタク=ネット右翼運動が継承する国学の精神(2)

今の日本で政治的発言をしていて、一度も中国人、朝鮮人「認定」されたことが無いとすれば、それは彼が政治の不正に抗議したことも、困窮するものに同情を示したこともない、ネット右翼かその追随者であることを意味するのであるから、逆に今日朝鮮人認定されることは、全く名誉なことであると言わなければならない。

しかし、近年までオタクやネットの世界にあまり関心を持って来なかった者は、そもそもなぜそういうことになっているのか、異様でありまた唐突で訳が分からず、しばしば、そこに無知や狂信を見出し、あるいはごく一部の者の自演や扇動と見なして無理に納得しようとする。

実際には「朝鮮人認定」の背景には、国学以来のそれなりに整備された世界観が存在しており、それゆえにネット右翼思想は、教養あるはずの者たちにも、強く広い希求力を持ってきたと言えるのだ。今日ではネット右翼は全く大衆化しているが、それも、まず知的青年の間でネット右翼思想が勝利を収めた結果である。


思うに、国学が徳川幕府のイデオロギーたる朱子学を批判した民間の学問であるというだけで、そこにリベラルなものを見てしまう傾向には、80年代以降の日本社会が、オタク、ネット文化の右翼性を批判しきれず、後手にまわりつづけた事とパラレルなものがある。

実際には江戸時代の民間思想史は、儒教の体制擁護的な部分ではなく、孟子から朱子へと至る、儒教の理性的、理想主義的側面をこそ専ら攻撃し、またこれを相対化する過程であった。全ての人間に天理が備わる──それはつまり、善悪の判断は、誰もが個人の資格で、いかなる権威にもよらずにそれを行い得るし、しなければならないという帰結を孕む──という理念を、理性の傲慢と見なして脱構築する過程の中から、我が国の国粋主義は生まれてくる。国学はその到達点である。

こうしてまことに困難なことに、国学的素養(それはさまざまな形で現代の私達の意識の中にも入り込んでいるのであるが)から見ると、西洋近代の民主主義や人権思想なども、日本人が江戸時代にとっくに超克した「からごころ」──儒教に代表される中国的、朝鮮的精神の焼き直しに見えるのである。日本の右翼思想はその始まりからポスト・モダンであった。


国学の「からごころ」批判の理論では、中国人、朝鮮人というものが、単に民族やナショナリティを表す言葉ではなく、意識的で明示的な規範に基づいて人や社会を変えていこうとする(国学の立場から言えば、傲慢で偽善的な)傾向全般を指す、一つの抽象的概念、思想的述語に拡張される。

これは無論、現実の中国や韓国/朝鮮の事情とはまた異なる、二重の意味で勝手な理屈だが、こと日本側の視点に限れば、我が国における近代以前の普遍主義的思考は全て中国朝鮮経由で伝わったものだという事情がある。

結局のところ、儒教から正義を、仏教から慈悲を学ぶまで、日本人はそういう概念の存在を自覚することは無かったのであって、それらはけっしてその辺から勝手に生じてきたのではない。我国の普遍的正義の伝統は、外来思想を理解し、吸収しようとしてきた変革の工夫と努力の中にしか見いだせない。それは、後発の文明地域にはありきたりの話で、日本に特殊な運命でもなんでもないのだが。

ともあれ、それゆえに、日本の国家主義にとって、正義と慈悲は外国製の欺瞞であり、潜在的に「反日」なのである。生来自然に正直な日本人には堅苦しいメインカルチャー(それはつまり、人間とその社会がいかにあるべきか、という問いに正面から回答しようとする文化である)など要らない。サブカルチャーだけで十分である。つきつめてしまえば、それが日本の草の根右翼思想がずっと主張してきた事なのであった。その系譜を受けつぐ形で、オタクは現代日本の右傾化において重要な位置を占めることになったのだ。


このような日本の保守/右翼思想の伝統を考えれば、現代の日本で保守自由主義のようなものをネット右翼の対抗として期待することは、かえって日本の実情に反する無いものねだりだと言わざるを得ない。日本における自由と公正は、左翼の意識的な変革のイニシアチブと、それに対する右派の譲歩という形でしか実現しえない。意識的な変革にともなう葛藤、居心地の悪さ、ぎこちなさ、不自然さ、うっとうしさ、乱暴さ、ある種の「醜さ」に耐えながらしか、達成されない。

「美しい国」とはいかにも稚拙なスローガンだが、日本の保守思想の宿命を端的に表す言葉ではあるのだ。日本の良心的保守と言われる人々は、ネット右翼を批判するにあたり、しばしば「差別は醜い、かっこわるい」のような、審美的論点しか出せない。しかし、どちらが美しいかというレベルの争いでは、私達はすでにオタク=ネット右翼の前に敗北したのではないか。

俗に「二次元」「アニメ絵」などと呼ばれるオタクアートは、かつては一般人から気持ち悪いとよく言われた。しかしこれは美の欠如を意味するのではない。真や善との交渉を断ったところで、ひたすら内向きに、官能への奉仕のために洗練を極めて行くオタクの美のあり方に、慣れない者達は強い抵抗を感じたのである。それは、「美しかない国」たることに居直る日本の国家主義の不気味さと軌を一にする。


日本の中国人、朝鮮人差別の構造は、やはり生物学的な人種差別思想よりは、欧州のユダヤ人差別と比較して理解されるべきものである。欧州のロマン主義も、「ヘブライズム」の普遍主義的(根無し草的)性格を批判しつつ、これを現実のユダヤ人排撃と巧みに混交させることで、ユダヤ人差別を知識階級が真面目に取り組むに足る思想、芸術へと「高めて」いったのであった。

戦後の日本においても、敗戦と占領の現実から目を背けるために、善悪の判断を保留し、もっぱら功利的観点から政治を評価しようとしがちだった日本社会に対して、政治の正しさの観点から問題提起する役目を負ったのはしばしば中国、韓国であった。しかしオタク世代にはそれが正しい正しくない以前に、ひどく遅れたものに見えるのである。中国人、朝鮮人蔑視と、普遍主義、理想主義への憎悪は、現代のオタク、ネット文化においても高度に融合している。ネット右翼の韓国/朝鮮人認定を「国籍透視能力」などといって笑うが、向こうも実際の国籍など必ずしも気にしてはいない。現代日本の政治的言語において、権利を声高に叫び、政治へと「逃避」する人間は、国学の伝統を継承するかたちで、象徴的また内面的な意味で朝鮮人と呼ばれるのである。

このような意味で、韓国/朝鮮人差別は、単なる偏見や憎悪にとどまらず、オタク・ネット世代の日本人にとっての、世界を認識する基本的方法であり、総合的な人生観であり、知的人間としてのアイデンティティであり、誇りとなるのである。このような世界観、拡張された「朝鮮人」概念が暗黙の内に共有されているがゆえに、現代日本の議論において、朝鮮人認定が強い力を持つ。それは暗黙の了解ゆえに、多くは右翼思想としての自覚すら伴わない。

そしてその中で、オタク文化は、アニメ、ゲームなどの特に虚構性の高い表現に遊ぶことを通じて、政治=社会正義によって自らを底上げしようとする醜いからごころ、我々の中の「内なる朝鮮人」を排撃する芸術運動として、自らの意義を再確認することになった。今日オタク作品を無批判に楽しむとき、人は意識的にせよ無意識的にせよ、このような芸術観に承認を与えることになるのだ。

現代日本において道義的理性の復権を企図するときに、オタク文化との対決が避けて通れない理由が、そこにあるのだ。