2013年7月27日土曜日

ロマン主義右翼についてもう少し

カール・シュミットは政治的ロマン主義の本質を、「主観的機会原因論」と捉えたのであるが、オタク文化を最近に経験している我々にとっては、もっとわかりやすい表現があるだろう。それは、「すべてはネタでしかない」という世界観である。

ネタではない「真性」右翼として、政治的ロマン主義に批判的だったシュミットが、なぜナチスのような、あからさまにロマンチックなものに加担することになったか。

この問題は、ひとつには、やはり私から見ると、近代の保守、右翼思想は、本人たちがどう思おうとも根がロマン主義的であり、ナチス的な底無しの悪乗りを拒絶しきれないという事になるが、いま一つは、ナチスはネタとして盛り上がるだけではなく、実際に行動し、権力を掌握したではないか、それは受動的で無責任なロマン主義的センスで出来ることだろうか、という見方が影響しているように思われる。

そうして、少なくとも、ナチスの指導者達は、ロマン主義的心情を手段として利用しただけで、その背後には、真剣な、確固たる理念があったはずである、また、その点で、彼らを利用し、あるいは操縦することが出来ると考えてしまう。

だが、やはりナチはそのトップにしてからが、冷笑的、諧謔的である。ヒトラーは著作も演説も全てがあまりに演技的で、何が本心なのか結局最後まで分からないところがある。

ナチズムの哲学は突き詰めると、優秀なアーリア人種が好き放題やらせてもらうぜ、ということしかないが、こういうのは「真剣な」な思想とはいえない。真剣であるとは、どんな形であれ、他者と共存していくためのビジョンを提示する必要に迫られているということである。

実に、人間の冷笑と諧謔の力を侮ってはならないのであって、それは国家も幾万の生命も平然と「ネタ」として食い潰す実績をもっているのである。


オタク=ネット右翼の特徴の一つは、まさに誰もが「自分はネタでやってるだけだ」と思っているという点にある。だいたい何かを本気で信じることはオタクが特に恥とするところだ。彼らは「ネトウヨなど存在しない、左翼の妄想だ」としばしば言っているが、本気でやってる人間はほとんどいないという意味では、まあそうなるのだ。

しかしここは「狂人の真似とて大路を走らば即ち狂人なり」というのが真理である。狂人をまねるのが楽しくて仕方がないというのが、まさに狂気なのだ。この、誰が一番狂人のマネが上手いかを競い合い、徒党を組んで大路を走る運動のことを、私達はネット右翼と呼ぶ。

ネット右翼のこういう性格ゆえに、相対主義的教養を基礎に持つ現代日本の知識階級は、なかなか彼らを正面からは批判し得ない。ネット右翼が少々度が過ぎるとしても、彼らが本気でないというその一点で、サヨクよりはマシである。ネット右翼を嫌うあまり、正義を盲信するサヨクに逆行してはならない。私達はネット右翼を越えて、その先にいく…こういうのは、日本の知識階級の意見の、ひとつの類型であろう。しかしこれは、無軌道に大路を走る大胆さがないという点を除けば、結局ネット右翼と大差なく、大きく見れば、オタク=ネット右翼的潮流を構成する部分でしかない。

逆に、知識人、教養人の世間で認められたいというような、つまらない野心を持っていない、純然たる無学者のほうが、ネット右翼をまともに批判しやすい立場にあるとも言える。ネット右翼に抵抗するには、ある種の愚直さが必要なのである。

しかし一方、私達が政治的合意を形成する過程で、知識階級の果たす役割というものを軽視することは出来ない。たとえ今日ネット右翼に反感を持つ者が、見かけよりも多くいるとしても、言論を担当する知識層が全般的に親ネトウヨであれば、そういう人々の反感が言葉にされ、あるいは代弁者を見出す道は封じられる。昔も差別主義者はいたし、権力の横暴、それを笠に着る者達もあった。今の日本の「右傾化」の特質は、それらに対抗する言論が形成できない点にこそある。

今日、ネット右翼が流布する様々なデマや虚偽や暴論に、真面目に反論し、対抗しようとする者達も、多くはないにせよ確かに存在する。しかし、デマを伝播する者達、虚偽を信じる(ふりをする)者達が、それが真実であるかを気にしているかといえば、本当はわりとどうでもいいと思っている。全てはネタとして面白いかどうかだ。

小林よしのりが「歴史はフィクションでしかない」と言ったように、歴史修正主義の本質も、史的事実に対するニヒリズムにある。歴史修正主義者も無論、史実について議論はするが、それは彼らにとっては、ある種の知恵比べのゲームに過ぎない。

真に強く知的な人間は、虚偽を虚偽のまま貫き通し、楽しむものである。強者を妬む卑劣な弱者が、真実にすがり、自己を正当化しようとする…そういうロマン主義的ニヒリズムが日本の知的人士の暗黙の了解となっている中では、左派が個別の事実問題で右翼と真剣に議論してこれを否定しても、そのことによってかえって軽蔑され、政治的にはますます孤立していくことにもなるのであった。

オタクに対する一般人の素朴な批判として、「空想と現実の区別がついてない」という言葉が昔からある。しかし当たり前だが、アニメやゲームに没頭する人間に「それは現実か?」と聞けば100人が100人、違うと答える。知的認識としては、区別は完全についているのだ。だからオタクはこの種の批判は不当な言いがかりと見なしている。虚偽と完全に知りつつ、それを弄ぶからこそ、オタクにとっての知的ポーズになる。だがこの批判は、そういったオタクの価値観自体に対する直感的な反発をも含むものだと、考えるべきなのだ。

ネット右翼を批判しようとする者は、それを支えている「虚偽こそが知的、現実主義的なものである」というオタク的な価値観をも批判の対象として視野に入れ、対立軸を作り出すべきである。そうしなければ、個別の事実に関して右翼と論争を重ねても、それは十分な効果を持てないし、どちらの方が賢いか、という知恵比べレベルに議論が矮小化されてしまいがちにもなる。