2013年5月17日金曜日
一部でネットが市民的自由や資本主義超克を推進するものと見なされる奇怪(1)
オタク活動には知識をひけらかし合う同類が必要だと以前にも言ったが、昔は、オタクにとってまずこの仲間を探すということが、ことにマニアックなジャンルになるほど容易でなく、彼らにとって常に大きな問題であった。オタクには社交性に乏しいというイメージがあるが、話が通じる相手を得たいという強い欲求のために、あえて何のつても無しに未知の領域に乗り出し、新しい人間関係を構築していこうとするケースも見られた。
しかしネットが普及するに及んで、それも過去の話になった。ネットではどんな趣味の同類でも時間や場所を選ばず得られる。情報技術がそもそもオタク関連ジャンルの一部であるということもあり、オタクが最もオタクらしく振る舞える場所として、ネット上のコミュニティが今日オタク文化の本体を形成するようになったのは、全く必然的な事であったのだ。
そしてまた、日本のネット文化自体がオタク的気質を持つ者達の手によって発展してきたとも言える。日本語圏のネットは基本的にオタクのテリトリーである。
今日、日本のアニメやゲームは、もっぱらネットのオタクコミュニティにどれだけネタを提供できたかで、その価値が決まってくる。今や私達はオタク文化を、アニメやゲームをダシにして、2ちゃんねるやニコニコ動画で形成した「了解」に、直接的あるいは間接的に追従することを楽しむ文化的運動と定義しても、だいたい問題はない。もし未来の研究者が現代日本のオタク作品を研究することになったとしたら、同時期のネットの膨大なログを精査しなければ、作品が持っていた意味を理解できないという事になるだろう。また逆に、アニメやゲーム、漫画でも、ネットから切りはなして鑑賞する余地の多い作品は、その分だけ「オタク度」が低いと考えることもできるのである。実際そういう作品は、オタクの思想からすると「作家のひとりよがり」という話になって、攻撃を受けやすいのであるが。
人と共通の話題を持とうとすることはオタクに限っての事ではないが、一般人の場合は「人」の方が目的であるのに対して、オタクの場合は、共有される知識が目的であり、相手は手段に過ぎない。こういう他者の個別の事情への無関心をもってオタクは自らを個人主義者だと考えるのであるが、これは、他者の個別性への敬意に基くところの、近代社会が目指した個人の尊重とはやはり別の物だ。自己をアピールしようとすることはオタクの間では何より嫌われる。
またこういった現代のオタク文化の構造ゆえに、私達は、ネットのオタク系コミュニティの大勢をもって、「オタクの総意」と見なすことができるのである。そしてオタク的なものが日本語による創作活動の主流を占める現在、それは実質的に日本の知的青年層の総意でもあるのだ。
このようにオタク文化にとってネットが本質的に不可欠のものであれば、オタクがネットにおける「言論の自由」を一応支持する傾向にあることに不思議はない。
しかし自分の知識を自慢し合うために群れているようなオタクのコミュニティでは、政治的自由を獲得するために必要な組織化、小異を越えた連帯というものが、いかにも成立しにくいのである。
今日、ネットで直接、自分の意見を発表すること自体は実に簡単になったので、この点をもってネットが市民的自由のためのツールであるかのように言われるのだろう。しかし烏合の衆では、本当に力を持っている人間からは、単に無視されるだけであるし、分断させることも容易である。こういう意味での言論の自由にできることは、自分より弱い立場の者に、よってたかって私刑を加えることぐらいなのだった。
実際には、ネット技術は、歴史的経緯から言っても、管理と効率化のためのテクノロジーである。それは人々をバラバラに分断したまま管理することを可能にする。
かつて国が人々を管理するとは、人々が所属する様々な、あるいは職業的な、あるいは地域的な組織や集団を管理することであった。こういった中間的な組織は、一面では支配の道具であるが、一面では、私達がその意見を一本化して上の者たちにねじ込む経路でもありえた。
私達は結束し、リーダーを立て、権力との間に何らかの点で力の拮抗を作り出した時に初めて、強者から多少の公正な取り扱いを引き出すこともできる。政治的自由は、結局そういう緊張関係の中にしかない。だか日本のネット技術は、しばしはそういう面倒な組織やしがらみから自由にしてやるという触れ込みつきで、私達のもとにやって来たのであった。
今、ネットの「言論の自由」の下にありながら、かえって日本の一般国民の政治的技術は、かつてないほどに低下していると言わざるを得ない。ネットで自由という語が使われるとき、多くの場合、無力の別名である。強者にとっては無害であるから、放置されているだけである。